巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu179

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 6.12

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)

史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百七十九、『蛭峰家』(六)

 森江大尉は真に夢中の状態である。ただ華子の身が心配なため、自分が見とがめられるなどの心配は少しもせず、たった今蛭峰と有国医師の出た裏口から忍びこみ、華子の部屋を目指して二階に昇った。華子の部屋はどこにある。見回すまでも無く廊下の一方にかすかに明かりが洩れて、中から女の泣き声が聞こえるかと思われる部屋が有る。大尉はドアを開けて中に入った。

 果たして華子の部屋である。大尉はその無事な顔を見て先ず安心した。勿論華子の驚きは一通りではなかったけれど、それはくだくだしく記すには及ばない。二人は様々に聞いたり、聞かれたりして、大尉がここに来た経緯も華子に分り、華子が今夜約束の場に来なかった理由も大尉に分った。それはほかでもない米良田夫人が死んだ為、毛脛安雄との婚礼の調印が延びたのだ。

 延びは延びても止めた訳ではないのだから、又遠からずその調印の日が来るには決まっている。大尉はせき立てるような声で言った。「それにしても華子さん、今夜ここを抜け出しましょう。馬車の用意も出来ていますから。」

 華子も心を決めていると見え、この性急な言葉を聞いても別に驚く様子は無い。しかし応ずる様子は少しも無く、「米良田夫人の葬式を済ませるまでは、どうしてもこの家に居なければなりません。私のためには大恩あるお祖母さんですもの、その遺骸を捨ててここを去ればどの様な罰(ばち)が当たるか知れません。」

 これには大尉も異存を言う言葉が無い。ただ悄然として、「でも、調印は、取り込みの中でも出来ますから。もし葬式の前に父上がその手続きをしようとしたらどうします。」
 華子;「それは私も気づかって居るのです。お祖母さんも息を引き取る前に、父に向かい婚礼は兎も角調印だけは直ぐにさせるようにと言い、又父も前から非常に調印を急いでいますから、明日にも私に迫るかもしれません。」

 大尉;「それではいよいよ絶望では有りませんか。やっぱり今夜逃げましょう。逃げましょう。」
 華子;「ですけれどただ一つ私には見込みがあるのです。ソレ、前から貴方に話しました祖父野々内弾正がーーー」
 大尉;「エ、あの中風のお祖父さんですか。手足も口も利けない人がこの様な際に何の頼みになりましょう。」

 華子;「まあそう言わずにお聞きください。ご存知の通り弾正は前から私を毛脛安雄の妻にはしないと請合っていてくれるでしょう。それだから今朝私はその枕元へ行き何もかも打ち明けてしまいました。ところが弾正は何時もの通り眼でもって私に安心していよとの意を伝えますから、それでは私は無事に森江大尉の妻になれましょうかと聞きますと、勿論との返事をしました。

 ですが私は、聞いただけではまだ森江さんが安心しませんから、お祖父さん、貴方はもし森江さんがこの枕元に来たら、あの方に向かっても、矢張り同じように請合ってくれますかと念を押しましたら、そうするとの意を答えました。もし何かお祖父さんが、毛脛と私との間を絶つ不思議な力を持っているのでなければ、決してこのように請合うはずは有りません。」

 森江は怪しそうに考えて、「イヤ、華子さん、外の人が請合ってくれるのなら、決して私は当てにしませんが、野々内弾正は昔、一代に恐れられた英雄で、私の父なども首領と仰ぎ、深く尊敬していた方ですから、たとえ年は取り、体は不自由になっても、まさか確かな見込みの無い請合はなさらないでしょう。どうぞ私を弾正の枕元にお連れ下さい。あの方が請合ってくださる見込みが付けば、私はソレだけを信じて、今夜の逃亡を貴方のお言葉通り葬式の終わるまで延ばします。」

 と言う中に隠居所の方から蛭峰と医師が共に帰って来て、裏口の戸を閉ざす音も聞こえた。その戸が閉まっては、イヤでも応でも弾正の部屋を通って去る外は無い。
 華子は非常に喜んだ。そうして自分で立って階段の所に行き、父が医師と共に居間に引っ込んだ事を見届けて又返り、今度は森江を案内して非常に静かに、二階を下り、廊下を伝って無事に隠居所である弾正の傍(そば)に着いた。

 実に弾正は見るも憐れな様子である。早くから一世を驚かし平伏させて歴史の数ページを満たした英雄が身も足も舌も動かず、ただ眼だけを動かして狭い隠居所を世界とするとは、変わり果てた末路と言うべきである。彼はただ森江の顔を異様に見つめるより外、何事もすることは出来ない。

 華子はこの様子を見て、「お祖父さん、この方が森江さんですよ。」森江も恭(うやうや)しく、「多年先生と主義を同じくしました森江良造の嫡子真太郎です。」弾正の眼は嬉しそうに輝いた。

 華子;「お祖父さん。貴方は私と毛脛安雄さんとの結婚を妨げてくださりますか。」
 弾正の眼;「然り」
 華子;「それでは調印の時になっても、私と森江さんとは安心していて好いのですか。」
 弾正の眼;「然り」

 森江は心底から感謝するように、「ただ一人の孫娘華子嬢を私にお任せくださるとは生涯の大恩です。ひとえに貴方のご助力を頼みと致します。」弾正は実に嬉しそうである。
 この全身不随の老英雄が、胸にどの様な奇略を蓄えているかは誰も知らない。

第百七十九 終わり
次(百八十)

a:459 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花