巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu200

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 7. 3

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百回、『大活劇の幕開き』

 猛田猛(たけだたけし)の差し出した始末書を、武之助は受け取って開き読んだ。この書にはヤミナの城がどうしてトルコ軍に破られたかを書いてある。
 最初の1ページを読んだだけで早や武之助の顔色は変わった。全く自分の父野西次郎の売国の証拠が満ちているのだ。今が今まで我父を真正の名誉ある軍人、正直な貴族、心の清い真人間、と思えばこそ、わずかばかりの新聞の雑報にも腹を立て、決闘してまで父の名誉を守らなければならないと思ったのだが、それが全くの売国奴、人として擁護することの出来ないようないやしむべき振る舞いの有ったものと分かっては、どうして悲しまずに居られようか。

 始末書はそう長くは無いけれど、中に記した父の汚辱は百年、千年消えることは無い。読むに従い武之助の顔は低く低く垂れて、再び猛田猛を仰ぎ見ることも出来ず、果てはただ男泣きに頭を動かすだけとなった。実にどれほどか悔しいだろう。

 今まで清浄潔白を誇っていた自分の体も、血管の中には売国奴の地が満ちているのだ。洗うにも拭い清めるにも、方法が無い。猛田猛はこのさまを見て、気の毒でたまらない。「野西さん、御もっともです。けれど父の罪が子に伝わると言う昔の倫理は廃(すた)りました。父は父、子は子です。貴方の身は何処までも清いのだからもうこの始末書を無いものにして、知らない顔で父の恥を隠す以外は無いでしょう。

 新聞の記事は既に三週間も前のことで今は誰も忘れています。このままに伏せてしまえば、誰が再び思い出して売国奴次郎などと言う噂をしますものか。たとえ思い出す人があっても次郎が即ち貴方の父野西子爵だと言うことは誰も疑いはしないのです。この私が無言で居さえすれば、貴方の一家の恥は闇から闇に消えてしまいます。勿論私は貴方への友好上、生涯他言するはずははなく、この場限りでこのことは忘れます。そうしてこの始末書は貴方に上げてしまいますから、サア思い直して父上の名誉を安全にお保ちなさい。

 これほどの親切が又とあるだろうか。三週間も旅行して調べ上げてきた始末書をそのまま与えて再び他言もしないと言うのだ。武之助は頭を上げることも出来ないけれど、深くその思いやりを感じた。そうしてしばらくの後、涙を収め、

 「私は慙死(ざんし)《恥じて死ぬこと》しても足りません。
 この始末書はヤミナ城主有井宗隣の遺臣とも思われるギリシャの立派な紳士が四人までも自署して事実の正確なことを保証して有りますから一点の疑いをも差し挟むところは有りません。全く野西次郎は売国奴です。たとえ父とは言え子とは言え、そのような者を私はこの上父と思うことは出来ませんから、自分の身は始末します。
 それにしても父の名誉を再び傷つかないようにするのは私の義務だと思いますから、お言葉に甘えてこの始末書は私が戴きます。」

 猛;「ハイ、貴方がこの始末書を絶滅して再び父の名が傷つかないようにすれば、それこそ貴方が二十余年の教育の恩を返すに足りるでしょう。貴方はいまどきに珍しい高潔な心が、浮気なような振る舞いの底に籠もっていますから、父の汚辱のために身を汚さないようにするのが肝心です。何もかも取り返しの付かない不運とあきらめ、前後の道を誤らないようにしなさい。」

 真に友人の忠告である。武之助は決然として立ち上がった。そうして、「お言葉に従います。」と一言叫び、かの始末書を取るや否や直ぐに傍らに燃えている暖炉の火にくべてしまった。
 これで我父の罪悪は跡形も無く消えた。全く親に対する子の義務を果たしたと言うものだ。しかし、之がために最早心が清々したというほどに感じる訳には行かない。猛に顔を見られるのさえ恥ずかしい。

 「猛田さん、私はもう貴方に合わせる顔がありません。イヤ、この国に居て全ての知人に顔を見られる勇気が無いのです。しかしこの後たとえどの様な遠国へ行こうとも貴方の恩は忘れません。」と悄然《元気が無い》として謝した。
 勿論猛田はこれを励ました。既に恥辱の証拠が煙滅した上は何もその様に自ら縮みこむには及びません。今までの通り大手を振って押しも押されもせずに、交際してこそ、父の名誉を保護することが出来るのだなどと、充分気が引き立つ様に言葉を尽くした。

 この道理には武之助っも少し従い、なるほど自分から恥ずかしそうに肩身を狭くしては、かえって人に父の汚辱を疑われる元かもしれないと思い始めたけれど、それにしてもなんとなく気が思い。どうやら今までの天地とは急に天地が狭くなった心地がする。兎に角今一応、よく考えてみなければならないと、猛(たけし)には更に何度も礼を言ってここを出た。

 そうして外の冷たい空気に頭を冷やしてみると、なるほど自分から恥じて尻込みするのはますます悪い。その上に一体誰が父の恥を暴き出したものか、その人を調べて復讐もしてみたい。そうだ、過ぎ去った罪悪を新聞に書かせ、いまさらこの身にまで肩身を狭くさせるような人は、すぐこの後もどの様なことをするかもしれないから、出来るものならその人を尋ね出して、充分懲らしめてやら無ければならない。

 このような気が起こるにつれて、大いに心も引き立つけれど、それにしても、当分はどこか静かな所に身を置きたい。そうしてこの敵がどの辺から出たものか、それらのこともよく考えてみたい。
 それからそれへと考えて歩くうちに、我知らず巌窟島伯爵の家の前に来た。この時丁度伯爵の家から馬車に乗って出た一紳士が武之助に黙礼して去った。

 この紳士は小侯爵皮春永太郎である。彼はいよいよ段倉夕蝉嬢と縁談が出来たことで、何か伯爵に相談に来たのだろう。このようなことはどうでもよい。自分も伯爵に会い、旅行先でも相談して見ようと、ふと思い付いてそのまま伯爵の邸にに入った。伯爵は直ぐに出迎えたけれど、これも何だか何時もより不機嫌である。そうしてつぶやくように武之助に言った。

 「実に困ってしまいます。皮春小侯爵と段倉の娘がいよいよ近日結婚するなどと。それで私が貴方や貴方のご両親に済まないから、今もそのような婚礼に立ち会うことは出来ないと小侯爵を叱って帰しました。」
 このようなことは武之助の耳には入らない。
 「それは伯爵、どうでもよいじゃありませんか。誰も貴方が小侯爵と夕蝉嬢との婚礼に責任があるとは思いませんから、それよりも伯爵、私は当分静かな所へ旅行したいと思いますが、どこか好い所は無いでしょうか。」

 伯爵はたちまち心を転じたように、「アア、旅行ならば私もその積りです。実はこの頃ノルマンデーの海岸に別荘を作りましたから、今日の夕方から行くつもりですが。」渡りに船とはこのことである。
 武之助;「どうか私をもお連れ下さい。」
 伯爵;「御両親に御異存が無ければ」
 誠に話は早い、直ぐに同行の相談が決まった。

 もとより伯爵のような人が、わざわざノルマンデーの海岸に別荘を作り、そこへ行くというのには何か深い目的が無くてはならない。その別荘を作るために伯爵がどれほど家令春田路に指図をしたか知れない。又どの様にしてその筋道に駿馬を配置し、その別荘の下に早船をつなぎ、スワと言えばとっさの間にこの国を立ち去る用意を整えてあるかは、既に読者が知っているところである。けれど、武之助はそれを知らない。

 きっと伯爵の別荘と言えば立派な所だろうと思い、直ぐに用意のために我が家に帰った。帰った後で伯爵は、これも直ぐに二階に上がり、何のためかは知らないけれど、かのヤミナ城主有井宗麟の一女という鞆絵姫の部屋に入り、およそ二時間ほども姫と何事か話しをした。話の中には互いに泣きもした、笑いもした。余程深い相談でもあったものと見える。

 ようやくそれが終わって再び下に降って来た時は、眉間に何やらただならない決心が刻まれているように見えた。けれど、その所に丁度用意を整えて武之助が来たために眉間の刻みは直ぐに嬉しそうな笑みとなった。そうして武之助が、母も貴方と御一緒ならと大層喜びました。」と言うのを合図にそのまま二人馬車に乗り、ノルマンデーを目指して鞭を上げた。後で思えばこれが全く大いなる活劇の幕開きであった。

第二百回 終わり
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