巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 7. 6

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百三回、『委員会』(一)

 喉は渇いて声も出すことが出来ず、身はこわばって動くことも出来ない野西子爵のこの有様は、自分の身に罪の覚えがあるためであろうか。それとも覚えは無いけれど、ただあまりの驚きに一時度を失ったためであろうか。

 まさか今までのこの子爵の名誉から考えると、売国奴と言うほどの醜い所業が有っただろうとも思われない。そうすれば議員の半分はこのことを無実の疑いと思い、半分は子爵に罪があるものと思った。けれど、誰も彼も子爵の様子が余りに普通ではないことに怪しみと哀れみとが交互に起こるのを制止することが出来なかった。

 まもなく議長は一同に聞いた。委員会を設けてこの事件を審問すべきか否かと。満場は委員会を設ける方に投票した。そうして委員12名、直ぐにその席で選ばれた。最早この事件は曖昧な中にもみ消すことは出来ないのだ。日を決めて野西子爵を委員12名の前に呼び出し、一々当時の事柄を調査するのだ。

 調査の結果、もし子爵が自分に売国の振舞いが無いという立派な証拠を示すことが出来れば良いけれど、証拠を示すことが出来ない場合、全く売国奴の罪に落ちることは勿論である。売国奴の罪に落ちるのは人間としてこれ以上無い汚辱に陥るのだ。名誉も身分もことごとく消滅して今まで名誉の高かった陸軍中将野西子爵は人間の交じりも出来ないことになってしまうのだ。

 議長はさらに野西子爵に向かって聞いた。「いつ貴方は委員会に出て御自分を弁護しますか。その日取りは貴方の御都合によって決めましょう。」何という寛大な措置だろう。しかしこのときまでに野西子爵は少しづつ、少しづつ、自分の勇気を呼び集め、変わった顔の色も何時もの通りに戻り、騒ぐ胸をも押し鎮めて、この恐ろしい場合に相応するだけの度胸を定めていた。

 最早恐れる所はない。恐れてはますます自分の身の暗いのを人に疑われるのだ。何の、と言う様子で傲然と立ち上がって答えた。  「議長よ」呼びかける声も確かである。「罪の無い者が、罪の無いことを言い開くのに、何で熟考の時間などが要りましょう。私はこのようなけしからん疑いを受けて、一刻でも我慢することは出来ません。委員会に出て審問されるのは早いだけ良いのです。」

 真に立派な答えである。子爵を罪み有りと信ずる人もこれには確かにその信念動かされた。議長はしばらく考えて、「それでは、今夕の八時から当院の委員室で開きましょう。もしも一夕で終わらなければ、終わるまで毎夜八時から開くことに致しましょう。」誰一人異議が無い。議長は再び「野西子爵は、それまで言い開きの材料を取り揃えなさるために、この席をお退きなさるが良いでしょう。」
 子爵;「それでは議長の好意に従いましょう。」言い放って野西子爵は、高く頭を空に聳やかし、罪も穢れも無い俺の顔を見てくれという様子で退席した。

 前から彼はこのようなことも有るだろうと、集められるだけ材料を集め、どの様な嫌疑をも言い開くことが出来るように手を尽くしてはある。之は自分の落ち度のある人の常である。何時その落ち度を発見されるかもしれないとの心配が常に心に絶えないから、どうしてもその辺の手当てをするのだ。しかし議員や傍聴者や一般の人々は子爵が一時喉がかれて身がこわばった様子を忘れない。子爵が果たして明白にこの嫌疑を拭い去ることが出来るだろうかと危ぶんだことは勿論である。

 これより委員会の開かれる夜の八時まで世間の噂は大変であった。寄ると触ると今夜の委員会を噂しない者はいない。中には子爵が委員会へ出席することは出来ないだろうと言う者も有り、機敏な新聞社などは、早くもその筋に手を回して、もし子爵が外国に落ちて行くためひそかに旅行券の下付を願い出はしないかと網を張って待っていたのもある。

 勿論委員会は秘密の議事で、傍聴を許さないのであるけれど、つてからつてを求めて、或いは書記又は従僕、又は給仕としてその席に出入りさせてくれととか、はなはだしいのはテーブルの下に隠れさせてくれなどと無理な運動をするものさえあった。その中の二人や三人は目的を達したらしい。

 やがて定めの時間とはなった。委員は残らず委員室に集まった。野西子爵は旅行券を願い出もせず、いかめしい礼服を身に着け、あたかも古の武人のように、胸のボタンを首の所まで掛け上げて、真に威儀堂々とこの部屋に歩み入った。右の手に皮の畳鞄(たたみかばん)を持っているのは言わずと知れた言い開きの証拠品を入れているのだ。

 この真面目な、そうして無骨な、しかも品格のある軍人に売国の罪などが有ろうとは思われな程である。委員の中の三、四人は少しも子爵を疑わないという好意を示す為、わざわざ席を離れて子爵と握手した。最早どの様な疑いでも微塵に言い砕いてしまうとの自信力がこの一事で更に子爵の身に強くなったように見える。

 子爵が席に着こうとするこの一瞬間であった。一人の給仕が一通の手紙を持って入って来て、恭しく議長の席にこれを置いて去った。この手紙、誰が何のために寄越したものか、もしも野西子爵がこの手紙の中のことを知ったなら、必ずこの委員会が平和には終わらないことを察することが出来ただろう。

 しかし手紙の中を想像することが出来るはずはない。議長といえどもこの手紙に重きを置かない。手に取り上げはしたけれど、イヤあたかも手癖が付いているようにその封じ目を開いたけれど、自分では封を切ったとも気が付かない様子で、そのまま又テーブルの一方に置き、見向きさえもせずに委員全体に向かい、

 「サア、これから委員会を開きます。」と報告した。封だけを開かれた今の手紙は、「早く中を読んでくれ、読んでくれ。」と請求するかのように見えた。

第二百三回 終わり
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