巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu211

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 7.14

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百十一回、『真にさめざめと』

 もし伯爵が在宅ならば、武之助との間によほどの騒ぎが起こるのに違いない。武之助は直ぐにその玄関に進んだ。彼の訪ねる声に応じ出迎えたのは家扶の春田路の下の破布池という執事である。勿論武之助を知っている。

 「伯爵は御在宅ですか。」問う武之助の言葉はいつもより厳格である。
 破布池;「ハイ、今丁度入浴中ですが。その後で食事をなさって、それから一時間お休みになり、そうして今夜は劇場にお出向きとのことで、丁度八時に馬車の用意の出来るようにとお言い付けがありましたから、お目にかかられる暇は無いだろうと思いますが。」

 暇が有ろうが無かろうが武之助はそのようなことを気にしない。そのまま浴室までも暴れ込もうかというほどの剣幕であるけれど、劇場との一語に、フト思いつくことがあって、「そうですか。」と穏やかに受け引いた。劇場ならばパリーの貴族社会、社交界がこぞって集まる所だから、伯爵を立腹させるにはお誂(あつら)え向きである。

 何も今無理に、この家に闖入(ちんにゅう)《突然入り込む》して面会を求め、誰も見ていない所で争うより、万目の注ぎ集まって居る桟敷(さじき)の中で彼伯爵をば、人に顔向けできないほど辱めてくれれば、我父野西子爵の仇も幾らかは返されるというもの。それに伯爵といえども公衆の前で侮辱されて、まさか決闘をしないと言うわけにも行かないだろう。

 よし、よし、決闘の糸口を開く手順は決まった。これが天の与える好機会というものだろうと、心の中で非常に満足し、破布池には、「では明朝でもまた伺おう」と何気ない言葉を残してここを立ち去った。
 そうして門の外で猛田猛(たけだたけし)に向かい、「今夜八時には必ず劇場に来てください。出来ることなら、どうか出部嶺や砂田伯をも誘って、」
 猛は武之助の心中を見抜いている。「承知しました。」と短く答えて立ち分かれた。

 直ぐに武之助は家に帰った。そうして第一に毛脛安雄や森江大尉や、その他の親しい者へ宛て、今夜ぜひとも劇場に行かないですかとの誘いの手紙を出した。言わば背水の陣を布(し)くようなものである。こうして人々を誘って置けば、まさかその場に及んで我心も鈍ることは無いだろう。また伯爵もますますもって逃げるに逃げられないことになるだろうと、何から何まで考えを行き渡らせたので、次には母の機嫌をも伺って置きたいと、その居間を目指して行った。

 思えば先の日、ノルマンデーに行くと言って母に別れを告げてから僅(わず)かに三日しか経っていないけれど、、その三日の間に我一家が変わり果てた状態とはなった。出る時は大勢の僕(しもべ)共、我先にと送り出て流石に名誉幸福共に満ち満ちてている貴族の家らしく思われたけれど、帰ってみれば一家窒息の状態で、出迎える者も無く、数多い雇い人共、何をしているのか、常に絶え間もなく、どの部屋からも漏れていた笑い声も絶えて、廊下に足音一つ聞こえない。

 それもこれも父が世間に例のない大恥辱を受けたから出てきたこと。父は今どのようにして居られる事か。イヤ、真に売国の罪を犯すような見下げ果てた父ならば、もう父ではない、子ではないと、数日前に猛田猛にも言い、堅く我心にも誓っているから、もう父の様子などは気にかけまい。

 それにしてもいたわしいのは母上である。きっとこれほどの旧悪ある夫とも知らず、二十年の上も連れ添い、肩身広く世にも交わり、貞女の鑑(かがみ)とも言われ、社交界の明星とも立てられて来たものが、一朝思いもかけないところから災いが起こり、世間に顔も向けられない浅ましい境涯に陥(おちい)ったとあってはどれほど辛いことやら。

 夜も昼も打ちふさいでばかり居られる事だろうと、自分から泣き出したいほどの胸を押し鎮め、無人の郷かと疑われるほど物寂しい廊下を通り、二階に上がってその居間を覗いてみた。ここにも人の影は無い。さてはと思って、更にその寝室に入ってみると、ベッドの面に打ち伏して、ふさふさとまだ若く美しい髪の毛ばかり見えているのが母である。「お母さん、お母さん、武之助が今帰って参りました。」言う声も静かな部屋の四壁に響いて物凄いように聞こえる。

 「オオ、武之助か」と答えて母は起き直り、「よう早く帰ってくれた。」と語を継いで、武之助の顔を見上げ、次ぐにはその両手を捕えたが、今まで憂きを語り合う相手が居ないため、胸のうちに悶え悶えていたことが、一時に泣き声となって漏れ出で、「オオ、この世にもう頼りとするのはお前ばかり。」言い差して泣き伏した。

 真にさめざめと泣くと言うのはこの事だろう。何時その頭が上がって来るやら測り知られない程に見えた。

第二百十一回 終わり
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