巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 7.15

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百十二回、『母の情』

 泣く母のそばに立って、武之助は少しの間無言で居た。母の涙が尽きるのを待っているのだ。
 ようやく母は泣き止んだ。泣くだけ泣けば一時心が休まるのが人の情である。武之助は母のいくらか落ち着いた様子を見澄まし、「お母さん、野西子爵にどの様な敵のあることを貴方は御存知ではありませんか。」

 問いかけるのは、もしや巌窟島伯爵と我父との間に古い恨みでも有りはしないかと探りたいのだ。けれど、我父とは言わず他人らしく、「野西子爵」というのは最早父子の縁を断ったとの意が洩れたのである。母はこのような父に対してよそよそしい武之助の言い振りに驚きはしたけれど、咎めはしない。

 「そうさ、どうせお父さんのように出世なさる方には秘密の敵がいくらもあるでしょうよ。けれど、敵と分かっている敵よりも、敵と分からない敵が本当に恐ろしいというものです。」
 真にその通りである。敵と分からないその恐ろしい敵を知りたいのだ。

 武之助;「ですから貴方に伺うのです。貴方は他人の気が付かないところまで好く細かにお察しなさるから。―――。」
 母;「でもなんでそのような事を聞くのだい。」
 武之助;「何でと言って、先ずたとえば先ごろ、貴方が夜会を開いたときなども、巌窟島伯爵だけが、何一つ食べないと言うことを貴方がお気付きなさったではありませんか。」

 伯爵の名に母御はギクリとした。「エ、巌窟島伯爵とは、伯爵が何かお前の今の問いに関係でもあるのかえ。」問う方もよそ事らしく、答える方もよそ事らしい。
 武之助;「ハイ、ご存知の通り伯爵は、言わば東方の人でしょう。東方の習慣では、敵の家で物を食べないようにしていれば、神から充分の復讐を許されると言いますから。」

 母御は色を青くした。「エ、何と、では伯爵がこの家の敵だと。とんでもない。誰がそのような事を言う。伯爵は親切一方の方ではないか。ローマで貴方の命を救ってくださるし。そうしてこの家へ初めて招待したのも貴方自身ではないか。」
 口には言えども心にはどれほど伯爵を恐ろしく思っているか知れない。恐ろしく思えばこそわが子を伯爵の敵にならせないように用心するのだ。

 「武之助、武之助、嘘にも伯爵を敵だなどと疑うなら、直ぐその心を捨ててしまいなさい。伯爵は敵ではない。お前を助けてくださる方だから、どこまでも貴方は親密にしていかなければーーー。」 武之助は聞きとがめるように、「何かお母さん、貴方は特別に私を伯爵と親密にさせて置きたい理由でもお有りなのですか。」

 ほとんど急所を突くような問いである。「エ、私が」と母御は言い掛け、たちまち顔を赤くしてまた青くした。そうしてその後の語は続かない。
 武之助;「そうです。何も伯爵がこの家を敵としないと限った訳はないでしょう。」

 母御は恐ろしそうに身震いし、やがてまたキッと武之助の顔を眺めて、「貴方は何だか伯爵を疑うように見えるけれど、それは間違いだろう。三日前までは伯爵をこの上もない親友ととしていたではないか。伯爵の別荘に泊まりに行っていたではないか。」
 なるほど泊りには行ったけれど、それは敵で有ればこそ伯爵が自分の邪魔と成らないようにこの土地から連れ去ったのだ。伯爵の手段に乗せられたのだ。

 そうとあからさまには言わないけれど、武之助の口の辺には苦々しい笑みと共に、その心が現われれた。母御はそれを見ただけで何もかも納得が行った。流石に母の情である。けれど、しばし何も言わない。武之助も何も言わない。この間母御の心はどの様に忙しく働いたか。

 やがて何気ない調子で、「今夜貴方は、母の機嫌を問うために帰ったのだろう。御覧の通り私は気持ちが優れないから、どうか、何処にも行かないように。今夜だけは家に居ておくれ。」
 もし外出させては伯爵を敵として、どの様な喧嘩をするかもしれないと、明らかに見抜いている。

 武之助;「お母さん、今夜ばかりは、やむをえない用事があって、外に出なければなりません。」
 止めたとて無駄である。母御は少し恨めしそうに、「母の威光でたってとは言わないから、では随意に何処へでもお出でなさいよ。」
 武之助はこの言葉の意味を悟らない振りをして一礼してここを去った。

 その後で直ぐに母御は気の許せる僕(しもべ)一人を呼び寄せ、今夜武之助が何処に行くか見届けてすぐに帰って来て知らせよと言い付け、次にまた侍女を招き余所行きの衣服を出させ、病気同様の身を引き立てて、これに着替えた。腹のうちでは問うまでもない。今の僕(しもべ)が帰り次第に場合によっては何処までも出かけて行き武之助を保護しなければならないとの親心である。

勿論僕(しもべ)の仕事は簡単だった。武之助は母に分かれるや否や、自分の部屋に帰り、何時もより一層気をつけてこれもこ着物を着替え、八時より十分前に訪ねて来た砂田伯爵を迎え、共々馬車に乗り、劇場を目指して去った。まだこのときは幕が開く前である。

 今に伯爵が来るだろうと気を配って待っていた。真にこの一夜は、昨夜貴族院の委員会で父の運命が決したと同じく、息子の運命、それに合わせては、巌窟島伯爵の運命が決するときである。果てどの様に決するか。

第二百十二回 終わり
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