巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu214

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 7.17

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百十四回、『命と命の取り替え』

 万人の目の前で、散々に罵(ののし)られ、無礼をば加えられ、その上に顔に手袋まで叩(たた)きつけられては、誰でも黙っているわけには行かない。巌窟島(いわやじま)伯爵が「喧嘩の相手になりましょう。」と言い切ったのは止むを得ない。
 深く思えば伯爵の身は、長年苦労した大望が、まだ全ては成し遂げられていないのだ。先ず七、八分まで漕ぎ着けたようなものの、これからが大事な場合、決して横道へ歩み入って、軽々しく命のやり取りなどすべきではない。

 それは伯爵自身が良く知っている。いかに武術に優れた身であっても勝負は時の運ではないか。どの様な拍子でどの様に負けとなって、どの様に命を失なわないとも限らない。もしも命を失っては今までの苦心が水の泡になってしまう。実に残念な限りである。伯爵の心中にはこの残念が満ち満ちている。

 アア、今決闘などしてはならない。敵を恐れるのではないけれど、我が事業が大事なのだ。けれどこうなっては仕方が無い。この喧嘩に応じなければ巌窟島伯爵という対面が支えられない。こうなったら相手を殺すまでである。可愛そうでも決闘に勝って、彼を殺し、我事業を助けなければならない。神に誓った大復讐を、やる所までやり果(おお)せなくてはならない。

 こう決心しては最早や伯爵の眼中に、野西武之助はこの世に無い人である。決闘に死んでしまった死骸も同然な者である。何もこの上に彼これと思いわずらうには及ばないと、伯爵は再び何気ない様子に返って物静かに舞台の方に向いた。この威儀と勇気の備わった態度には誰もさすが伯爵だと感心した。

 武之助の方は、叩きつける積りの手袋を森江大尉に遮(さえぎ)られたのが少し残念ではあるけれど、しかし、伯爵の「相手になる。」との一言を聞いた上は、先ず目的は達したのだから、ほとぼりの冷めないうちに決闘の条件を決めるのが肝腎と思い、では直ぐに介添え人を寄越しますと、言葉を番えてここを出た。そうして直ぐ猛田猛(たけだたけし)に一切のことを託した。

 猛は引き違いに伯爵の桟敷(さじき)に入り、先ず一通り武之助の無礼を謝した上で、「兎も角、彼は自分の受けた大打撃に、気も転倒しているのですから、どうか伯爵、貴方の口からただ一言、鞆絵姫が委員会へ出て証言したのはこの巌窟島(いわやじま)の指図ではないと言い切ってください。私は貴方のその一言を土産に何とか武之助をなだめますから。」

 極穏やかな調停ではあるけれど、散々侮辱を受けた上にその様な謝罪めいた弁解が出来るものか。伯爵は力ある語調で、「ハイ、巌窟島伯爵は巌窟島伯爵という自分へ頭を下げるほかは誰にも頭を下げません。」
 猛;「ごもっともでは有りますけれど、そう仰(おっしゃ)られては決闘は避けられません。」

 伯爵;「ハイ、決闘は既に話が決まっています。本来ならば私が侮辱受けた方ですので私が武器を選ぶべきですが、子供のような者を相手にそれも大人気ない訳ですから、武器は武之助君に選ばせましょう。武器と場所をお知らせください。いつでもその場所に行きますから。」

 その他に用は無いとの気持ちは分かっている。こう言われてはかえって巌窟島伯爵の得意と聞くピストルを選ばなければ卑怯である。
 猛;「それでしたら、武器はピストル、場所はビンセンの公園、時刻は明朝の七時」
 間違いのないように、明白に言って猛(たけし)は退いた。ピストルならばいくら伯爵が上手でも伯爵の弾がこちらに届く時にはこちらの弾も伯爵の身に届くから、命と命の取替えであると武之助が言ったこともある。双方とも満足であろう。

 後に伯爵は森江大尉に向かい、「このような場合となっては、外に介添え人に頼む人は有りません。どうか貴方と、貴方の妹緑夫人の夫、江馬仁吉君に願います。」と言った。勿論、森江は快く引き受けた。この言葉の後は、伯爵の挙動に少しも普段と違ったところは無い。静かにかつ面白そうに最後の幕まで見てしまった。真にどれほどの度胸か深さが知れない。

 けれど、その実、心の底から面白い訳ではないだろう。屋敷に帰って、自分の居間に入るや否や伯爵はしばらく黙然として考えた末、執事波布池を呼び、ピストルを取り寄せて、二度三度空を狙い、敵を射る真似をした。こうして自分の腕が狂わないかどうか、試すのだろう。外に沢山の用事もあるけれど、先ず腕試しが気に掛かるのだ。

 用事の第一は万一自分が死んだ後での、鞆絵姫の身の振り方、雇い人の処分、屋敷別荘の処分、財産の処分、それぞれ考え定めて、細かな遺言状を認めておくことがあるのだ。
 しかし、伯爵の心中に自分が殺されると言う思いは少しも無い。今まで何事も神の助けを得て、自分ながらもほとんど人間業ではないと思うほどにうまく運んできたものが、ただ決闘の一時にいたってつまずくと言うはずは無いように思われる。従って、遺言などのことは気が急がない。僕(しもべ)どもの寝静まった後でよいとこのように思っている。もし、この心が間違いでなければ、伯爵のために幸というものだろう。

 このようにしてまたも伯爵はピストルを取り上げたが、なんだか腕の具合に気に食わないところがある。これは果たして腕のせいか或いはピストルのせいだろうかと疑問に思い、明かりの下に近づいて、綿密にピストルを調べ始めた。辺りはひっそりと静かである。そうして灯火の光は、研き立てたピストルに映じ、また青白い伯爵の顔を照り返して、物凄い有様を映し出した。もし、この際にこの様子を見る人が有れば、静かな一室に殺気の満ちているのに驚き、身を震わせて尻込みもするであろう。

 ところが実際、このとに伯爵の背後からこの様子を見る一人が有った。伯爵は何だか人の気配がすると思い、それとなく振り向いて見ると、この部屋の入り口の敷居の上に、黒い服を着け、顔をベールに隠して立った女の姿がある。何だか幽霊のようにも見えた。

 伯爵は驚き、かつ不思議に思い、「婦人よ、貴方はどなたです。」と聞いた。婦人は答えるより前に先ず辺りを見回し、誰も聞く人の居ないのを見澄ましてつかつかと歩み入り、伏して拝むように、伯爵の前に膝を折り、「友さん、友さん」と叫んだ。

 アア伯爵が誰かに「友さん」と呼ばれたのは何十年昔だろう。その頃ならば耳にうれしく懐かしくも響いた声であるだろうけれど、今はほとんど聞き忘れて、隔世(かくせい)《時代をへだてる事》の思いがある。伯爵はただ物凄く感じて、一足後ろに退いた。
 婦人は再び叫んだ。ほとんど絶望の声である。「友さん、私は息子の命乞いに参りました。」

 自分さえ忘れたほどの昔の名を今もって知っていて、繰り返すのは誰、たとえ、その名は覚えていようとも、その「友さん」が今の巌窟島伯爵と知る人があるはずが無い。
 伯爵;「貴方は誰の名を呼ぶのです。」
 声とともに手に持ったピストルも落ちた。

第二百十四回 終わり
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