巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu217

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 7.20

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百十七回、『友太郎とお露』(三)

 伯爵の言う言葉は真の人間の至情(しじょう)《自然の人情》である。二十数年積りに積もり凝りに凝った恨みの一念があたかも噴火山の潰裂(かいれつ)するように口を突き破って、ほとばしり発するのある。誰でもこの言葉の正面に立つことが出来るものか。子爵夫人が身を震わせて平伏したのも無理では無い。

 けれども子爵夫人も子を思う母の至情をもって武之助の命乞いに来ているのだ。その至情ということに於いて伯爵の至情に劣るはずは無い。伯爵の復讐もなし遂げなければならないだろうが、こちらの命乞いもなし遂げなければならない。いくら伯爵の言葉が最もだと思っても、それなら私の息子をお殺しなさいと承知して帰り去ることが出来ようか。

 何が何でも母として子が殺されるのを最もだと思えるものか。何にが何でも伯爵の口から武之助を殺さないとの約束を得なければならない。至情と至情のこの争いは何処にどう落着することになるだろうか。ああ又ああ。

 夫人は打ち伏したままに叫んだ。「友さん、貴方の復讐はもう住んだのではありませんか。
 野西子爵が委員会で受けたような辱めがまたと人間の世にありましょうか。子爵はもう子爵では有りません。元の漁師次郎という卑しい身分に帰る事さえ出来ません。子にも妻にも合わす顔は無く、ただ恥じの中に死んでしまうだけです。

 貴方の泥埠(でいふ)の土牢はどれほど苦しかったとしても、もし逃げ出せばまだまだ、その外に広い世界がありました。次郎の恥は逃げ出す世界がありません。死んで冥府に入ったとしても、冥府に彼を入れてくれる所がありましょうか。彼は未来永劫身の置き所が無いのです。尽きることの無い呵責(かしゃく)《責め苦》の中に落ちたのです。

 貴方の恨みは未だ尽きないというのですか。オオ、あんまり恐ろしい。そのような執念深い友さんではなかったのに、イエイエ貴方は未だ、憎いお露が復讐を受けずに残って居ると仰(おっしゃ)るのでしょう。お露は次郎にも増すほどの復讐を受けました。今からお露の行き所が何処に有ります。あれ見よ、売国奴の妻だと言ってお露に後ろ指を指さない人が何処にいます。お露はこのような恥を恥と思わない女でしょうか。

 貴方がいた泥埠の牢の中には、不幸はあっても恥ということは無かったのです。不幸と恥とどちらがお露には辛いでしょう。それだけでなく、良くお聞き下さい、友さん。お露が夫とした人は顔を隠して、世の人の憎しみや辱めの底に沈み、妻の目からも早く消えてしまってくれればよいと思うほどの状態ですのに、一方に、お露が夫としなかった人は世界を足元にひれ伏させ、高い誉れと栄華の上に立ち、お前の夫と見比べよというようにお露の前に現れているのです。

 雪と炭、雲と泥ほどの違いを絶えずお露に思い知らせておられるのです。女の身としてこれが苦しみで無いでしょうか。この上の辛さが何処に有りましょう。これでも貴方は、未だお露が復讐を逃れているというのですか。これでも足りずに、まだお露の息子武之助の命まで取らなければならないとと仰(おっしゃ)るのですか。あんまりです。あんまりです。貴方の胸には露ほども慈悲の涙は無いのですか。」

 慈悲の涙が無いのではない。涙があればこそ、天に代わって人を懲らしめ、千年百年この世に悪人の根を絶とうとまで思っているのだ。それがためににこそ、慈悲の涙をも自分から涸らして石心鉄腸に心身を鍛え固めてこの世に出て来たのだ。

 「では夫人、悪人の一族を押しつぶすなと言うのですね。やっと成就の間際まで漕ぎ着けた、この大願を、捨ててしまえと言うのですね。出来ません。出来ません。」と伯爵は自分の胸をかきむしるようにもがいて叫んだ。

 けれど、子爵夫人の今の言葉にどれほどその石心鉄腸さえも揺るがされたかは、ひれ伏している露子夫人をやがて引き起こして長椅子に座らせたのでも分かっている。これはなおその心の底に昔の愛の根が深く残って為でもあろうか。それともーーー、イヤ、そうではない。

 まさか今まで愛の根が枯れずに居ようとは伯爵自ら思いはしない。ただ、その天性の中に寛仁大度という広い度量が備わっていて、消すにも消せない哀れみの心があるために、さては委員会の一撃がそれほど野西次郎に打撃を与え、またその妻さえそれほど辛さを感じているのか、我復讐がそれほど効を現したのだと、少し心に緩みが出たのだ。

 しかし、「武之助」を許すとの言葉は出ない。それが出るまでは露子夫人は繰り返しても願わずにはいられないのだ。「友さん、私がこの通り昔に返って、貴方を友さん、友太郎さんと言うように、貴方も私をお露よ、お露さんよと呼んで、昔に返って聞いてください。」

 些細な願いのようではあれど、異様に伯爵の心の底に浸み込んだ。「お露よ」と伯爵は先ずおぼつかない声で繰り返し、引き続いて、「なるほどお露さん、この美しい名前は、恨めしくも未だ私の口にゆかしい響きを残しています。この名をこの口でこう明らかに呼ぶのは何年目であろう。」

 言いながらも恍惚として伯爵はしばし考え、「オオ、お露よ、この名を私は土牢の底の、闇の中で、恨めしい声でも呼び、悲しい声でも呼び、果てはハイ絶望の声でも呼びました。何回、何百回、石の床の寒さに凍えながらもこの名を呼び、もうこの世に生きている辛抱が尽きたと言って、自殺を決心した間際にもお露お露と叫びました。

 十四年の間、一日としてこの名が友太郎の口に絶えたでしょうか。アア、十四年、十四年、友太郎は泣き、友太郎は嘆き、友太郎は呪いました。祈りました。一身がただ復讐に凝り固まりました。父母からこのように、情けもなく、涙も無い子に産んでくれたのではない友太郎が、何でこのような鬼のような心になりましたか。誰のため、何のため。

 お露よ、お露さんよ、友太郎は復讐しなければなりません。十四年の間、毎日、毎夜、我心に刻み付けたこの復讐を思いとどまることは出来ません。」と十四年の苦しみを、今更のように呼び起こして叫ぶのは、露子の言葉に我心の動かされるのを恐れるためである。

 これくらいのことにこの復讐の心を緩ませてはなるものかと死力を尽くして自分の心を守っている。けれど、自ら心の緩むのを恐れるだけ実は早や心が緩んだと言うものではないか。露子夫人の言葉には、従うことがと辛いのと同様に、従わないこともまた辛い。真にこれが断腸の思いというものである。

第二百十七回 終わり
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