巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu218

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 7.21

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百十八回、『友太郎とお露』(四)

 「柔好く剛を制す」とは人情の弱点を見破った名言である。いかなる英雄豪傑と言っても泣くこには勝つことが出来ない。今、巌窟島伯爵もほとんどこのような思いがするのではないだろうか。敵がもし自分よりも強くて、力をもって自分を圧倒しようと掛かるならば、どの様に引き受けても戦ってみる。強ければ強いだけその闘いに愉快がある。

 たとえ自分が負けるにしても、負ける悔しさの一念で全く力が尽きるまで戦うことが出来るのだ。ただ相手が女であって、言葉よりも涙が多く、力よりも情が先にたち、そうして自分の正面を襲わずに足元にひれ伏すというような有様に至っては力を加えるところが無く、挫(くじ)くにも挫(くじ)きようが無い。ほとんどどうしようもないことになるのだ。

 伯爵は早やこのような事態に立ち至ったと感じた。自分で情を動かしてはならないと思うけれど、自分の意思にはかかわらずに情の方が動き始める。イヤ、動かされ始める。もしもこのような脆(もろ)い情のために、長年の苦労、苦しみの中で計画してきたことをここで躓(つまず)かせるようなことがあってはならないから、土牢にいた十四年間の苦しみをことごとく思い出してあたかも燃える火に薪を加えるように、我恨みに力を添え、ほとんど、何と露子夫人の言い返す言葉も無いように言い切った。

 「復讐しなければなりません。」という伯爵の言葉は静かな部屋の中に耳を劈(つんざ)くように響いた。露子夫人はたじろぐほどであったが、また踏み応えて、「それだから貴方の復讐は無理だとは申しません。復讐しなさい。復讐しなさい。恨み重なる次郎と、罪の深いこのお露に、思う存分に復讐して、ただ息子武之助だけは許してくださいと言うのです。彼に何の罪が有ります。何にも知らない彼をまで助けることが出来ないとは情けないではありませんか。」

 実に武之助には罪は無い。伯爵は反論する言葉さえ思い出さない、ただ胸の中の苦しさを、呻(うめ)きの声に発し、自分で自分の頭の毛を書きむしるように掴(つか)んで煩悶(はんもん)した。露子夫人は又一歩進み出て、「友さん、友太郎さん、貴方も苦しんだでしょうけれど、私の苦しみも軽くは無かったと思いませんか。貴方の姿は私の心のうちに、絶えず鏡にものが写っているように、消えた時とてありません。

 貴方が居なくなって後、片時も私は貴方のために神に祈りを絶たなかったのです。その後には何の音沙汰も無いために、たぶん牢の中かどこかで死んだことと思いました。ハイ、死んだと思うことになって後は、毎日心で泣いていました。泣くのと神に祈るより他に、女の身として何ができるでしょう。友さん、私は十年の間、貴方の夢を見ない日は一夜でもなかったのです。

 その後、新聞で団友太郎という者が泥埠の牢で脱牢を企てたということを読みました。さては友さんがまだ死にはしなかったのかと、驚きも悲しみもしましたけれど、その記事はただ貴方がそのときに死んだことを確かめるばかりでした。貴方が他の死人の袋に入り、高い崖から海に投げ込まれる時、崖下の空中で叫び声を発したので、、牢番等は初めて生きた人を投げ込んだと気が付いたけれど、直ぐに深さも知らない水の底に貴方が沈んでしまったと有りました。

 このことを知って後、私は毎夜の夢に、海の際の崖の上で牢番のような人が袋を持ちそれを振り動かして、惰性つけ、そうして海に投げ込んでいるところを見ました。そうして袋の中から出る魂切るような貴方の叫び声を聞いては目を覚ましました。一夜でも私はこの叫び声にうなされずに寝たことはありません。友さん、貴方も苦しんだでしょうけれど、私も苦しみました。ハイ、世の女には類の無いほど私も苦しみました。」

 伯爵は又も自分の頭をかきむしりながら、「なるほど、苦しむことは苦しんだでしょう。けれど、貴方は自分の父が自分の留守中に餓死するというような辛い場合に遭(あっ)たことがありますか。自分が終身出ることが出来ない土牢の底に沈み、死ぬばかりの苦しみをしている間に、自分と命までもと言い交わした女が、自分の恋の敵―――自分の密告者に―――手を差し伸べていると言うような苦しみに有ったことがありますか。」

 と真に人生、痛苦痛恨の極を描いてなおも引き続き問いかけようとした。露子夫人はこれを妨げ、「イイエ、そのような苦しみには遭った事は有りませんけれど、自分が昔命までもと言い交わして愛した人が、今は自分の子を殺そうとしているような苦しみには遭いました。」アアその苦しみとこの苦しみとどちらが辛いか。真に露子夫人のこの言葉は、最後の悲鳴である。聞くにも忍びないほどの凄絶な声であった。

 流石の伯爵も喉に咽(むせ)びの声がおのずから起こってくるのをどうしても防ぐことは出来なかった。
 ああ、ああ柔は終に好く剛を制した。復讐者の石心鉄腸も砕いてしまった。
 伯爵;「ではどの様にせよと仰(おっしゃ)るのですか。息子武之助を助けよと言うのですか。致し方ありません。助けましょう。」

 助けましょうの一語、伯爵にとっては生き血を搾り出すよりもまだ辛い所である。けれど搾り出した。露子夫人のこの時の驚喜はたとえる方法が無い。伯爵の眼にも自ずから涙が迸(ほとばし)り出すほどに映じた。けれど伯爵の涙は千金万金にも換えるべきではない。真に人間の情の美の極まるところから発するものなので、神が惜しんでこのような涙は人間にこぼさせない。伯爵の涙は直ぐに乾いた。

 露子夫人は熱心に伯爵の手を取りこれを我唇まで上げ、「オオ、本当に武之助を許してくださる。私は感謝する言葉を知りません。友さん、友さん、貴方は何時も私の心の鏡に写って居たとおりの慈悲深い寛大な方です。このような美しいお気質と知ればこそ私の尊敬は絶えないのです。貴方は人の中の神様です。」

 感謝されるのは悪くは無いけれど、ただこの武之助を許すという短い言葉が伯爵にとってどれほど重大な事柄だろう。武之助を許すのは武之助を許すだけでは済まない。今まで運んだ一切の大計画をこれ限りで捨ててしまわなければならない。詰めて言えば武之助を生かすのは伯爵自身を殺すのである。伯爵は泣くにも泣かれない苦い笑みを帯、悄然《しょんぼり》として答えた。

 「友太郎はもう永く貴方にそう尊敬されている時間が無いのです。彼は復讐のために墓の底から生き返ってきた死人ですから。幽霊ですから、死人はもう下の墓場に帰らなければなりません。そうです、幽霊は暗闇に退かなければなりません。」
 何と言う物凄い言葉だろう。最早大事業を思いきりこの世に用のない身となったため、死んでこの世を去らなければならないとの、さびしい心が暗に言葉の中に籠もっているのである。

第二百十八回 終わり
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