巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu219

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 7.22

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百十九回、『友太郎とお露』(五)

 人は有情の動物である。情の激動した場合にはどの様なことでもする。ただ情のために一切を忘れるのだ。巌窟島(いわやじま)伯爵が「武之助を助ける」と約束するに至ったのもこれではないだろうか。巌窟王とも言われる人が情のために一切を忘れるとは余りのことに受け取りがたいほどではあるけれど、伯爵は元来情の人である。

 ただあの土牢を出てから後、今まで全く情を動かさない鉄石のような人となっていたのはその決心の強いためであるけれど、一つは今夜ほど恐るべき相手に出会わなかったのだ。情はたいてい自分より強い相手には動かされずに弱い相手に動かされる。

 実に露子夫人が伯爵の情を動かすことが出来るただ一人の相手だった。全く伯爵はこの夫人の、子を思う母の情に感動し、なるほど武之助が自分のために殺されるのは母たる者の身にとってどれほど辛いことだろうと、哀れみ察する情が一時に起こり、ほとんど自分で自分の心を抑えるという気さえ起こる前に、「助けましょう」と言う約束の言葉が口に出たのだ。
 言い切って直ぐ後で早や後悔の念がひしひしと身を責めたのは勿論である。けれど仕方が無い。

 全く武之助をを助けるのは自分の身を殺すのだ。今まで二十五、六年、海もこれに比べたらなお浅く、山もこれに比べてはなお低いと言うほどの艱難辛苦を復讐のために重ね、そうしてその復讐が最早届くと言う間際になってこれを捨てて世を去るとは人間に出来ることだろうか。たとえ出来なくても伯爵はこれを為さねばならない。

 「死人は元の墓に帰り、幽霊は暗闇に退かなければならない。」と伯爵がさびしい言葉を吐くのは当然である。けれど、露子夫人は怪しんで、「エ、エ、貴方は何とおっしゃいます。」と聞き返した。
 伯爵;「貴方の命令です。私は死ぬのです。」
 露子;「死ぬ。誰が貴方に死ぬことを望みましたか。何で死ぬなどと言う言葉をお用いなさいますか。」
 納得が出来ないのも無理ではない。伯爵は絶望の声で、

 「死ぬほかは無いではありませんか。私に比べれば、未だ子供も同然な武之助に、衆人の前であのように侮辱され、それを懲(こ)らしめずに泣き寝入りになったと言えば、世間の人はこの巌窟島伯爵を何と言います。
 泣き寝入りではない。許してやったのだと弁解ができるでしょうか。相手は許されたのを、自分の勝利のように吹聴し、世間の人は許したのを私の臆病に帰するのです。このような状態となって、何で生きている気が起こりましょう。露子さん。露子さん、私が何よりも深く愛したのは貴方ですが、貴方の次に愛したのは自分の身です。私は自分の身の品位を愛し、他人に優れて決心の強いのを愛するのです。この強いのが私の生命です。然るに今は貴方のためにこの強い決心を挫(くじ)かれました。生命とするところのものを掻き消されました。これで私は死ぬのです。」

 「でも、決闘を止めてくだされば良いでは有りませんか。貴方がもう武之助の無礼を許してくださったのですから、エ、無礼を許せば決闘の箇条が消えるではありませんか。」と露子夫人はあわてて言った。
 伯爵;「イヤ、決闘は致します。ただ私が武之助を射殺すのを辞めて、武之助に射殺されるのです。」実に驚くべき決心である。流石の露子夫人もこれには絶叫の声を発し、あたかも射殺される人を抱きとめるかのように、身を躍らせて前に進み出たが、たちまち思い直したと見え、その足を踏み止めて、

 「友さん、私はただ神の守護を願う外はありません。貴方が泥埠(でいふ)の海に死なず、この通り生きているのも、こうして二人再会するのも神の守護があればこそです。なおこの上に私は神の守護を祈りながらも、兎に角貴方のお言葉を当てにします。貴方は武之助を助けてくださると言いましたね。」

 一方には神がどちらをも死なさないのを祈りながら、一方には今の約束の念を押すのである。
 伯爵;「ハイ、御安心なさい。武之助は無事に生存しますから。」請け合いはするものの、全く自分が武之助のために犠牲にされるようなものだと思えば、何で露子がこの身のこれほどの損害を気の毒とも思わずに受け引くのか理解が出来ないような気もする。

 いくら子を思う親心にもせよ、わが子のために人に命を失わせるとは、せめて辞退らしい言葉でも発しそうなものである。けれど、露子には、言葉だけにも辞退や辞儀の気は少しも無い。ただうれしそうに「友さん、貴方は本当にこの世にまたとない、心の立派な美しい、そうして偉い方ですよ。私としてもどうか貴方に恥じないだけのことはしたいと思いますが、兎に角、武之助のことはくれぐれよろしくお願いします。」と念の上にも念を押した。

 勿論伯爵は念を押されるまでも無い。確かに我言葉を守る積りではいるけれど、実に情けない思いがしてならない。「露子さん。貴方はまだ、これがために私の迷惑がどれほどかと言うことを知りません。」迷惑と言うような有り触れた言葉で言い尽くせるような残念なことではない。

 「今この場合に、私が命を失えば、何もかもーー何もかも」と、伯爵は満腔の不平、怨恨、苦痛、絶望などを叫ぼうとしたけれど、叫んでも無駄である。又叫び尽くせる言葉と言ってもない。露子はそのうちに身繕いをした。

 「友さん、又お目にかかりましょう。どうか何分にもよろしくお願いします。」三度念を押して、伯爵が茫然自失している間に立ち去った。その後に伯爵はほとんど人事不省のように考え込んでいたが、露子夫人の立ち去る馬車の音に気が付いて後を追おうかとするかのように立ち上がった。けれど、もうし方が無い。又よろめいて椅子の上に倒れ、

 「エー、エー、この身ほどの愚人はない。復讐を思い定めた時に、何ゆえ自分の心を割いてこの弱い情をえぐり捨ててしまわなかったのだろう。」と悔しがった。誰が思っても全くその通りである。伯爵の心のそこにまだ慈悲哀憐などの念が存在していたのは、千秋の残念なことと言わなければならない。

第二百十九回 終わり
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