巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu222

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 7.25

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百二十二回、『死の前夜』(三)

 人の一生には危機一髪という時が有る。善人が善をを忘れて悪の中に堕落するのもこの一髪の間際である。この間際に、心の舵の取り方ひとつが生涯の運命を決するのだ。今巌窟島伯爵が恍惚(こうこつ)《うっとりして》として鞆絵姫の寝顔に見とれた際がいわゆる危機一髪という時ではないだろうか。

 そうでなくても伯爵は夕方から露子夫人の涙に動かされ、既に一段の危機をを踏み外して、心の底が掻き乱されている。いわば「英雄の心緒(しんしょ)《心持ち》乱れて糸の如し」とも言うべき状態である。もし伯爵にして、その乱れた心緒の糸を露ほどでも操(あやつ)り損じたなら、このとき限り伯爵は一種情魔の奴隷となって、人生一切の航路を打ち忘れ身も名も心もその事業も消えてしまうことに立ち至るかもしれない。
 死ぬと決心した明朝の決闘場にさえ出る気力が無くなってこの場から駆け落ちすることにならないとも限らない。誠に危ういばかりだ。

 この危機一髪の時に臨んで伯爵はどの様に心の糸を操ったか、両眼に涙を浮かべたが、ややあって、「オオ」と叫び、恐ろしそうに身を震わせて、深い深い嘆息とともにつぶやいた。「そうだ、露子夫人は息子の身の上を気遣うため、あの通りこの身を説得した。私は今死ぬと言う場合となり、我娘も同様なこの鞆絵姫の後々を気遣わずに置かれようか。死んだ後でもこの姫の行く末の立つように、篤(とく)《念を入れて》と手当てを決めて置かなくては。」と言い、静かに辺りを見回して、又書斎に引き返したのは、乱れた心緒を取り留めて、元の伯爵に立ち返ることが出来たのである。ひとまずは無事に危機の面を通過することが出来たのだ。

 そうして再び机に向かい、先刻書き入れした遺言状のほかに、また新たな遺言状を認(したた)めた。その文は、
 「私は私の財産の一部として、モント・クリストの巌穴に蓄えて有る約二千万の純金を大尉森江新太郎に残すものである。新太郎にして、もし今なお心に決めた妻が無ければ、亡ヤミナ城主有井宗隣の一女鞆絵姫を妻と為すべし。姫は私が私の娘のように愛し、又私を自分の父のように敬って、私が育て上げたところである。私は姫を私の真正の相続人と定め、英国、フランス、オランダ、オーストリーにある地所、家屋、株券等を合わせて六千万の財産を相続させるものである。その他は私の忠実な召使に分配すべし。詳細は既に認(したた)める別な遺言状にはっきりと記してある。そうしてこの遺言状の執行者は家令春田路をして当たらせるものである。」

 このように認(したた)め終わった丁度その時、伯爵の背後の方から女の叫び声が聞こえた。伯爵は驚いて筆を取り落とし、直ぐに振り返って見たが、立っているのは鞆絵姫である。「オオ、姫、何で貴方は、―――イヤ、貴方はこれを読んだのか。」姫はほとんど叱るような声で、「何で貴方はこの夜更けにこの様な書き物を、そうしてなぜ私に財産を残すなどと、」

 伯爵は当惑して、「イヤ、当分の間旅行しなくてはならないから、―――もし途中で何の様な不慮の災難が有るか分からない。」と勉めて何気なく言ったけれど、声にも語調にも、隠し切れないほどの悲しさが籠もっている。
 姫;「何時も旅行はなさるけれど、この様な書き物をお作りなさらないでは有りませんか。、何時もの旅行と、今度の旅行は違いますか。」

 その問う様子が、日頃ただ柔順な姫の口調ではなく、ほとんど責め問うような語気である。伯爵をただ主人と思い、ただ父の様に思うだけの口から、この様な語気が出るものだろうか。伯爵はそうと気が付いて、心底から自分の身が揺らぎ出すように感じたけれど、強いてその感じを押し留め、

 「もしもの事があった時、我娘の身に不幸を及ぼしてはならないから。」
 アア伯爵は「貴方」ということさえ遠慮して、まげて我娘というのである。
 姫;「もしものこととは死ぬということですか。」
 伯爵;「人は何の場合にも、死ぬことを考えてそれだけの準備を決めて置かなければならない。」
 姫;「そのような為の用心ならば、私で無く、誰か他の人を相続人にお定めなさい。貴方がお亡くなりなされば、私もーーー私は何にも要りませんから。」

 伯爵と共にこそ死ね、その後に生きながらえる心は無いとの意が、自ずから現れている。伯爵は胸のうちが急にこわばるような思いがして、返す言葉も簡単には出て来ない。姫は言葉と共に遺言状を取り上げて、引き裂き床の上に投げた。投げると共に、最早身も心も力が尽きたものか、どうと後ろにざまにそり倒れた。今度は眠ったのではない。気絶したのだ。

 慌(あわ)てて伯爵は走り寄り、自分の腕の上に抱き起こしたが、美しいその顔は、先ほどの寝顔と同じ顔であるけれど、唇の辺りに何やら物言いたそうな様子が見え、そうして眉と眉の間を恨みにか悲しみにか少しひそめている。この眉と唇は、何の思いを伝えるのだろう。

 伯爵は初めて疑った。この身の死を気遣って気絶したのは言うまでも無いけれど、何ゆえそこまで気遣うのだろう。父のように愛し、主人のように敬うだけではない。命を賭けてと思うまでに、この身を慕っているのではないだろうか。とはいえ悲しいかな、最早この身に半日とは寿命はない。早や夜は白々と明け始めて、台所の辺りには召使の者が起き出でたような音さえ聞こえる。

 「アア、姫がこの様な心と知れば、この身にーーー、この身にさえも、まだ多少のうれしさが残っていただろうに、多少幸福な生涯を営むことも出来たろうに。」
 非常に残念でならないようにつぶやいたまま、姫を抱いて次の間に出て、鈴を鳴らして召使を呼び、姫の介抱をこれに託して、自分は三度元の書斎に入り、姫の破った遺言状を拾い集め、更に同じ文句を書き直して、机に納めた。

 これで、死ぬ準備は整った。「もう何も用事は無い。」と辺りを見回して立ったとき、顔に何だか苦いような笑みが浮かんでいた。 丁度この時、門の外に馬車が止まった音がした。介添え人森江大尉が決闘の戦場に付き添って行くために来たのだ。これが死の迎いとも言うべきである。

第二百二十二回 終わり
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