巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu223

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 7.26

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百二十三回、『決闘場』(一)

 門前へ着いた馬車の音に、伯爵は直ぐ窓の所に行って外を見た。果たして馬車からは森江大尉とその妹婿江馬仁吉とが降り立ちつつある。いよいよ死の迎いである。
 伯爵は自ら玄関まで出てこの両人と握手した。森江は感心の様子で、「イヤ、お手先の確かさには敬服です。私は何度も決闘場へ出かける人と握手しましたが、軍人中にすら手先の震えない人はほとんど有りません。これで勝利は必然です。」

 自殺と決心した身にとってはこのほめ言葉が有り難くもなんとも無い。伯爵はただ苦笑いするだけである。江馬仁吉も後について、「私共は昨夜心配の余り一睡も致しません。」
 伯爵;「イヤ、他人ながらそこまで私の運命を気遣ってくださる方があるとは本望の至りです。私はもう死んでも残念とは思いません。」

 死んでもとの一句に妙に力が籠もって聞こえた。
 森江;「貴方は何だか負ける覚悟でいらっしゃる様に見えますが。」
 伯爵;「ハイ、私の覚悟を見せますが、先ずこちらへ。」と言って二人を書斎に連れて行った。そうしてあの遺言状を示し、「もしもの時にはどうかこれをお読みください。」と言い、更に執事破布池を呼び「俺がここを出たら直ぐにこの遺言状を公証人へ届けてくれ。」と手渡した。

 大尉はまさかこの書中に自分宛に二千万円の大金を形見とするような事が記されていようよとは思わないが、伯爵の口調で何か自分に後事を託しているに違いはないと察した。しかしそのような空漠な推量などよりも差し当たり介添え人の義務として報告しなければならないことが有る。

 「伯爵、実は昨夜のうちに先方の介添え人、砂田、猛田の両人と、トルトの割烹店に会し、決闘の条件を相談しました。私は長剣をと主張しましたけれど、砂田伯が或る撃剣師から貴方が長剣の大名人だと言うことを聞き知っていて応じません。押し問答の末、ピストルと言うことに一決しました。

 長剣ならばどちらかが微傷を負ったとき、介添え人が見計らって引き分けることも出来ますからかえって危険が少ないのに、ピストルでは一発急所に当たればそれっきりです。実に不安で仕方が有りませんが、その代わりに切に私が主張して互い違いに発射する方法に決め、貴方の方が被害者ですから、最初の一発は貴方が打つことに致しました。」

 もし伯爵にして自殺の決心を持っていないなら、かえって敵から発射させるのを男らしいととして喜ぶところだろうが、自分で自分を射殺すと決めているだけに、この取り決めをうれしく感じた。自分のほうが第一弾を発射するなら敵から傷付けられないうち、立派に自殺することが出来る。

 こう決まっては万に一つも自殺の仕損じは無い。うれしいけれど、又残念でないでもない。
 伯爵;「イヤ、段々の注意の程は深く感謝しなければなりませんが、どちらにしても私は敗北です。敗北のような気が致します。」 森江;「そのような不吉なことを」

 伯爵;「しかし、貴方がたの御安心のために、私のピストルの発射方をお目にかけて置きましょう。」と言い、二人が何の意かと理解しないうちに伯爵は直ぐにピストルをもって裏庭に出て、前から出来ている射場的に五点の印のあるトランプ一枚を貼り付け、「森江さん、今日の決闘は何歩離れて射撃しますか。」
 森江;「少し遠すぎるかもしれませんが、なるべく双方の無難を計るため二十四歩の距離をもって」

 伯爵;「よろしい、ここですね」と言って、的から二十四歩退き、充分には狙いをも決めないほどの速さで持って五回続け打ちに発射すると、驚くべし、一弾も外れずにトランプの五点をことごとく射抜いてしまった。

 大尉はあっけに取られ、「貴方は神手です。これならば最初の一発で野西武之助を射抜いて殺すことは必然ですが、しかし伯爵、どうか彼を殺さないように、右の腕の付け根の辺りでも、射抜いて下さい。そうすれば彼はピストルを取り上げることが出来ませんから、決闘は貴方の名誉に帰して終わります。彼を殺すのは可愛そうです。彼には母がありますから。」

 伯爵;「ハイ、彼には母親が有ります。私には母も何もありません。」何という沈痛な言葉だろう。
 森江;「イヤ、これほどの神手で有りながら、彼の命だけは助けてやれば、誰でも、貴方の寛仁大度なことを感心せずにはいられません。」
 伯爵;「ナニ、御安心なさい。彼は決闘場から無事に、自ら歩いて帰宅することが出来ますから。」

 森江;「そして貴方は」
 伯爵;「担がれて、帰るでしょう。」
 江馬;「そのようなことが有るものですか。」
 伯爵;「イイエ、出掛けに料理店に立ち寄り、帰りに食うからと言って料理を注文して置いて、決闘場に出るパリーの流儀とは、私の流儀は違いますから。」

 嘲りの中に何となく一種の覚悟が現れている。しかし森江も江馬も伯爵の今の手際に安心して、大いに心配は薄らいだ。やがて三人は馬車に乗り、定めの場所を目指して出発したが、一人伯爵だけは何時もに似ず打ちふさぎ、何事にか深く未練が残っている様に、馬車がその門を出る時なども振り向いて永く我が家の二階を眺め、かすかに嘆息の声を洩らした。二階には鞆絵姫の部屋があるのだ。

 この様子に森江は少し不審を抱いたけれど、伯爵の心の底の秘密を知るはずは無い。直ぐにまた思い直し、「イヤ、伯爵、臆病な奴に限り、この様な時に空元気を示し、しゃべったり笑ったりするものです。貴方の沈着な態度は、かえって真の勇士の態度でしょう。」

 伯爵;「ハイ、二十年ほどの間、死生の地に立つ身は、あえて死と言うことを恐れませんけれどーーー」
 恐れないけれどどうしたのだろう。その後の語は発しない。これから全くの無言にて八時少し前に約束のビンセンの公園に着いた。
そうして馬車を木の陰に停めて三人は降り出でたが、彼方を見れば、向こうの介添え人猛田、砂田の両人が同じく馬車を控えて待っている。

 森江がその元へ行こうとすると、伯爵は少しの間止めて物陰に連れて行き、低い声で、「私は死ぬ前に、――イヤ、決闘する前に、貴方に聞いておきたいことがあります。少し異な事柄ではありますが。」
 森江;「何なりと」
 伯爵;「貴方の心はまだ自由ですか。」
 
 森江;「エ、何と」
 伯爵;「イエ、未だ妻と思い定めた女が居ないのですか。」
 森江は子供のように顔を赤くして、「有り、有ります。」返事のただならない様子に伯爵は、さては一通りならず深く言い交わした女が有ることを見て取り、失望はしたけれど、なおも念のためにと、「それは到底思い切ることのできないような」

 森江は初めよりも勇気が出て、「ハイ、自分の命よりもその女を愛します。」もう疑う余地は無い。「よろしい、直ぐに決闘に着手するように運んでください。」何気なく大尉を去らせたけれど、伯爵はほとんど絶望の状態である。「アア、一度運が傾くと、何もかも総て絶望に終わるばかりだ。決闘すれば自分が自分を射殺さなければならないことになるし、こればかりはと見込んだ鞆絵姫の件までも見込みどおりには行かない。アア」

 ああと又め息をついた。真に伯爵の運勢が傾き始めたというものだろうか。

第二百二十三回 終わり
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