巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu225

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 7.28

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百二十五回、『決闘場』(三)

 顔の色土よりも青い伯爵と、眼を夜一夜の心配に腫(は)らしている武之助と、相対して立った。未だ介添人が決闘の開始を宣告しない前にこのように当人同士がにらみ合って立ち向かうとは例のないことである。ただ偶然にこの様な有様に立ち至ったのだ。

 双方の介添人は少し呆気に取られた状態で、これを引き分けるべきか、はたまた捨てておくべきかの考えさえ浮かばないうちに伯爵は又進んで、僅かに武之助とは一間(1.8m)ほどの距離となった。「諸君、篤(とく)《念を入れて》とお聞きください。」と言って厳かな一言が、この時前置きのように武之助の口から出た。

 彼は伯爵に告げたいと希望したことをここで言い出す積もりと見える。介添人も後から来た二人の紳士も耳を傾けないわけにはいかない。あたかも説教の聴衆のように、武之助と伯爵との左右に立った。武之助は少し震える声で、「ただ今私が諸君に申しますことは、後で諸君において思うままに世間に吹聴してよろしいのです。私はなるべく明らかになるように広く私の気持ちを了解していただきたい。」言葉と共に声も次第に確かな響きを帯びてきた。

 伯爵はここまで聞いて、「ハイ、そのお説を伺いましょう。」と促した。武之助は語を継いだ。
 「私は子爵野西次郎の旧悪を暴露した巌窟島伯爵の所行《行い》を憎み、ほとんど許すべからざる無礼と思い、伯爵に決闘を挑みました。これは決して野西次郎に旧悪が無いと信じた為では有りません。悲しいかな野西子爵がヤミナ州においての挙動は暴露された通りであります。けれども、一個人の旧悪をば、巌窟島伯爵が何の権利をもって暴露するのか私は全く伯爵が権利の無いことをすると思い詰めましたため、それで伯爵を責めました。伯爵に暴行を加えました。所が今は納得が行きました。決して伯爵は野西次郎の旧悪を暴露する権利が無いのではなく。充分その権利があったのです。伯爵はヤミナ城主の恩に背いた子爵野西次郎を罰したのではなく、伯爵自身に対して容易なら無い虚偽の挙動の有った漁師次郎に仇を返したのです。伯爵のしたことは一々もっともです。私自身が伯爵の地に立ったらやはり伯爵と同様のことを致します。諸君よ、私は次郎の息子でありながら、ことごとく伯爵のしたことを正当と認めるだけでなく、伯爵がなお一層の手厳しい手段を手控えられたことを深くここに伯爵に感謝するのです。」

 決闘のために来て、決闘の相手を弁護し、謝罪の言葉を述べるとは、これが世間にあることであろうか。まして武之助の気の強い気質として、どうしてこの様なことが出来るだろう。一同はただ驚いた。たとえ百雷が一時に足元に落下するともこうまでは驚かないだろう。武之助は更に断言した。

 「私はこれらの事情を知らない間こそ伯爵を責め、決闘して伯爵を殺すか、伯爵に殺されるかの積りでありましたが、伯爵の所行を正当と知った以上決闘する権利が有りません。伯爵に対して、一時たりとも決闘の意を起こした我が身の罪を謝罪するのです。今日ここに決闘に来たのではなく、なるべく大勢のの知人の居る面前において、明らかに謝罪するために来たのです。」

 闘うは易く、闘いをやめるのは実に難しい。まして決闘の相手である人に対して、明らかに謝罪するとは、良心の勇気が人に百倍する人でなくては出来ないことだ。これを千古美談と称しても良い。
 聞くに従い巌窟島伯爵の胸には無限の思いが湧き起こった。最早自殺の必要は無い。決闘の必要も無い。自殺せずして、決闘せずして、露子夫人に約束した通り、武之助の一命を無難にすることが出来るのだ。何という有り難い幸せだろうと、知らず知らずに顔を上げ、感謝の意をもって天を仰いだ。

 そもそもこれは何のために出たことだろう。問う迄もなく、露子夫人の努力なのだ。夫人が夜一夜を費やして武之助を説いたのだ。これを思えば夫人が、伯爵が死ぬと言ったのを止めもせずに、当たり前のように聞き流して立ち去った心のうちも分かった。そのときに既に成竹(せいちく)《計画》があったのだ。

 武之助は更に主として伯爵に向かい、「もし、これだけの陳謝をお聞きくださるならば、どうか私と握手して下さい。今まで貴方のなさる事は真に妙算神の如しで、万に一つの過ちも有りません。これは私の及ぶ所では有りませんが、私の勉めるところはただ誤って改めるのをはばからない所だけです。過ち多い人間の行為としては、私は自分の所行を人間であるのに恥じないと思いますが、更に貴方の所行は人間以上です。」

 真に伯爵が武之助を助けるために、身を殺そうと決心したのは人間以上である。神々しい行いである。
 武の助;「今日貴方と私と決闘すればどちらか一方が死ぬに決まっていたのです。これを助けるには天の使い《エンゼル》よりほかにありません。その天の使いが昨夜降って我々を助けました。貴方が私と再び今までの通りの親友に立ち返る事は、残念ながら事情が許さないでしょうが、天の使いの力で我々は互いの間に永く尊敬を残すことが出来るのです。」

 伯爵は聞き終わって、彼が請うように手を差し伸べた。これを彼は、あたかも神の手でも握るかのように深く尊敬と畏怖とをもって握り、そうして又一同に向かい、「全く私は巌窟島伯爵に対して軽率、疎漏でありましたが、この様に陳謝してその罪を償いました。ただ世間ではキット私を臆病者という者が有るでしょう。臆病で有るかどうか疑う人があれば、何時でも試験に応じます。」

 誰でも彼のこの挙動を臆病から出たと思うものか。事情を知らない砂田(いさだ)、出部嶺、猛田、毛脛らは少し怪しむ気持ちも有ったけれど、「何時でも試験に応じる。」という最後の一言がこの人々の口を閉ざした。

 これで決闘の一場は終わってしまった。この一同の中で、言葉ににも形にも現しようが無い程に深く心を動かしたのは巌窟島伯爵である。伯爵は黙然と頭を垂れて退いたけれど、胸は思いに塞がって、その身が何をなしつつあるかを知らない。しばらくして森江と江馬との間に立ち、馬車をつないだ辺りに返って、初めて思い見ることが出来た。

 これにつけても露子夫人の働きは女丈夫と言うのに足りるのだ。昨夜息子武之助の命乞いして帰った後で、武之助に対して、何もかも打ち明けたのに違いない。親として子に向かい、過ぎ去った恥を説くのは、永くその孝心を傷付けるというもので、普通の人の我慢できる所ではない。けれど、夫人はこれを為した。そうしてこの身が武之助に代わって死ぬと言う決心を起こしたことまで説きたてたために、ついに武之助も感動して今日の美しい挙動に出たのだろう。

 これを思えば未だ天意は現われている。さては天意に見捨てられたかと悔やんだのは間違いであった。「アア、やはりこの身は天の大任を托されてて居る。今という今、しみじみと思い知った。」
 腹の中でつぶやいて、二十年来蓄積した大勇気を、一時に倍し、二倍して取り返したように見えた。

第二百二十五回 終わり
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