gankutu226
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 7.29
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
二百二十六回、『一家離散の時』
決闘の場所に臨んで敵に謝罪して決闘を止めるとは、恐らくフランスの決闘史にその例の無い事だろう。事情を知れば実に千古の美談では有るけれど、もし事情を知らずに見ればこの上ない臆病である。再び社交界に紳士として歯(よわい)《同列に立つこと》することは出来ない。
たとえ事情を話した所で人がそれを信ずるものではない。又余りに込み入りすぎていて詳しく話すことさえ出来ない。それだから武之助は事情は話さないと言うことに決心した。ただ「昨夜天之使《エンゼル》が現れた。」とだけ言った。それ以上のことは少しも言わない。勿論覚悟は決めているのだ。もうどうせ社交界に入ることは出来ないものと、イヤ、実はこの国にいて一身を支えることさえ出来ない。売国奴の子よ、決闘を恐れる臆病者よと世に言いはやされてどうしてこの国に居ることが出来るだろう。
これを思えば彼の所為はますます非常な良心の勇気から出たものである。普通の人ならば、売国奴の子と言われるからは破れかぶれに決闘してせめては勇士と言う名だけでも取り留めておきたいと思う所だ。真に彼はエンゼルの感化を受けたものに違いない。
そのうちに巌窟島伯爵は江馬、森江と共に馬車に乗って立ち去った。こちらの介添人お呼び知人は直ぐに武之助を取り囲み、「一体今日の君の所為はどうしたと言うのだ。」と口々に聞いた。武之助はただ、「君たちの見もし聞きもした通りであるのさ。」と答える他に一語も言わない。
一同の中で一人猛田猛(たけだたけし)は思慮の深い男だけに、「イヤ、野西君、君がこれほどにするからはきっと深い訳があるのでしょう。その詳細をたるや人の秘密にも渡るだろうから、我々は強いて聞きたくは無い。聞かずに君を信じよう。君が決闘を止めたのは決闘を行うよりもまだ勇気のある所行に違いない。けれど君、我々はこう信じても世間の人が、総てこう信じると言うことは出来ない。今日以後君は世間からあんまり良い顔をされないものと覚悟をしなさい。」
武之助は悄然《しょんぼりすること》と打ち萎(しお)
れてはいるけれど、今更驚く様子は無い。「勿論覚悟はしている。」と応えた。
次に口を開いたのは毛脛安雄である。「僕ならば、人の噂の静まるのを待って、二、三年外国へ旅行する。」
武之助;「それも僕は覚悟している。」
友人中の一人がこの様な次第で外国へ旅行するとは残る人々にとって余り気持ちの良いものではない。安雄は更に慰めるように、「しかし、君、君が世界の果てに行こうとも、我々の同情は絶えず君の身に添うて居るから気を確かに持ちたまえ。」
他の三人も賛成して、「勿論、我々の同情は何処までも消えはしない。」と口をそろえて言った。
武之助;「イヤ、諸君のこの同情に対しても、僕はおめおめとこの国に居て君らの顔を汚すことは出来ない。野西武之助は決して知己の恩に背く男ではないから諸君安心してください。」これだけの言葉を残して彼は乗って来た馬にヒラリと乗ってここを去った。
この様にして彼が公園を出るや、木の陰から立ち現れ、同じく馬で彼の後に付いて去った者があった。これは彼の従者である。彼の運を気遣って初めから付いて来たのだ。彼は馬の上からこの従者を顧みて、「オオ、今に始めぬお前の主人思いはこの武之助深く感謝する。」と言った。
間もなく武之助はヘルダー街の我が家に着いた。着いて歩み入ろうととする時、二階の窓からチラリと人の顔が見えた。これは父陸軍中将野西子爵である。子爵はわが子武之助が我汚名をそそぐために今朝巌窟島伯爵と決闘することになったことをどうしてか聞き知って、わが子にあわす顔が無い身ながらも、うれしく思い、我居間である二階の窓から首を出して眺めていたのだ。
今武之助の無事に帰って来た様子を見て、決闘に勝ったものときっとうれしく思ったことだろう。喜ぶ様子を見られるのを恥じ入って、あわただしく顔を隠さなければならないとは、心柄是非なしとはいえ、又笑止の限りである。武之助は知らない振りで直ぐに自分の部屋に入ったが、最早一刻もこの家に躊躇することは無い。
指して行く先は決まっていなくても、兎も角この家、この土地、この国から離れなければならない。ソレにしては父が売国の所業をもって得た汚らわしい金銭財宝をチリほども身につけて去るのは身の穢れとなり、他日再び身を立てるときの妨げになるだろうから、今まで我が物としていた品物一切は、取り調べて置き去りにしなければならないと、先ず箪笥その他を開き改め、納めるべきはこれを納めるなどして、ことごとく部屋中を片付けた末、抽斗(ひきだし)、押入れ一切に錠を卸(おろ)し、その鍵には、父に分かるように目印の合符(あいふだ)を付け、明白にテーブルの上に置いた。
このような所に入って来たのは先ほどの従者である。武之助は少し驚き、「誰もその方を呼びはしないよ。」早く立ち去れとの意を示した。従者は当惑したように、「イイエ、ただ今将軍が私を召しましたゆえ。」将軍とは父子爵を指すのである。
武之助;「将軍が召したなら将軍の部屋に行くが好い」
従者;「ですが、行けば必ず決闘場の様子のお尋ねが有りましょう。何と返事をしてよろしいか、貴方に伺ってからと思いまして。」
武之助;「問われたなら、ありのままを返事せよ。武之助は決闘場において、介添人、及び知人の前に立ち、決闘はせずに相手の巌窟島伯爵に謝罪して帰ったと言え、少しでも違ったことを言うと承知しないぞ。」
従者は言われたままに退いた。
アア、武之助のこの一語は真に父将軍に対する最期の裁判とも言うべきだろう。父将軍はうれしい息子の手柄と、憎い我敵の倒れたのを聞く積もりで武之助の従者を呼んだのに、その口からかえって息子の謝罪の顛末を聞いては、現在自分の息子からまで、こうもいやしまれ排斥せられるかと思い知り、かの上院の委員会の審問よりもなお辛く、真に死刑の宣告を受けたように感じるだろう。
武之助はこの後でなおも部屋の壁に懸けてある数個の額面を取り卸(おろ)しなどしておよそ半時間ほどを費やしたが、その間に父は今の従者から宣告のごとき報告を聞いたと見え、荒々しく二階を下り、直ぐに馬車に乗ってどこかに立ち去る音がした。
けれど、武之助は何処に立ち去るのか怪しもうとすらしない。ようやく片づけが終わって、母へ他所ながら暇乞いのため、その室を訪うた。所が不思議や母露子夫人も同じ決心と見え、武之助と同じように部屋を片付け、抽斗などの鍵に札を付け、机の上に置き、もうこの上に手落ちは無いかと部屋中を見回している所である。一家離散滅亡の時が来たと言うべきだろう。
第二百二十六回 終わり
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