巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu229

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 8.1

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百二十九回、『将軍と伯爵』(一)

 これこそ伯爵に取っては、一生の運命の決する時である。昨夜野西武之助との決闘に死を決したよりもなお重大な決心を呼び起こさなければならない。武之助の父野西将軍は全く伯爵と刺し違いて死ぬ積りで来たのだ。死に物狂いであるのだ。武之助との決闘、従って伯爵の自殺は幸いにして逃れることが出来たけれど、野西将軍のこの怒りには逃れる道が有りそうには思われない。

 伯爵は直ぐにそれと知った。確かに将軍は私の命を奪いに来たのだ。けれど、何としてこれに応ずべきか深く考える暇も無い。特にそばには鞆絵姫が付いているので、驚く顔さえも見せたくないのだ。それでただ泰然として、「野西将軍を客間に通して置け。」と答えた。

 鞆絵姫は野西の名を聞き、美しい眼に怒りの光を現して「野西将軍とは、あの次郎では有りませんか、伯爵。
 伯爵;「ナニ、次郎ではあるけれど、貴方が気に掛けるには及びません。」
 姫;「恨みを返しに来たのではないだろうかと思われます。それならば私が。」
 伯爵;「恨みを返すと言っても自分が当然の天罰を受けたのに、何も我々を恨むことは無い。何もかも私が引き受けて、イヤ、充分に言い懲らして返しますから貴方は安心して居間に戻っていなさい。」

 姫;「だって」
 伯爵;「イヤ、だってには及びません。安心してサア部屋に」
 伯爵の言葉は時として人の争うのを許さないように力強く聞こえる場合がある。別に鋭く言うわけではないけれど、何となく威厳があるのだ。
 姫は言葉を返しかねて、「ハイ、貴方がそうおっしゃれば安心して退きます。貴方のお言葉は神の言葉です。」言いながら伯爵の額にキスをして去ったが、軽いキスではあるけれど、伯爵は全身に電気の波が染み透るかのように感じた。

 そうして姫の立ち去る後ろ姿っを見送ったが、朝夕に見る姿ながらも取り分けて愛らしく又懐かしく思われ、大切な用事を控えながらもほとんど目を離すことが出来ないほどであった。ああ、伯爵のために第二のお露が現れたと言うものではないか。伯爵自らも早やこの世に愛の幸福を得るなどという若やいだ心は全く枯れ尽くし、木石のような身、木石のような心に成り果てたものと思い、ただ人間を恨めしくのみ思っているけれど、まだ心の底のどこかに愛しもし、愛せられもする密のような甘い、柔らかい情けの泉が潜んでいるのでは無いだろうか。

 今はさまざまな事情から一時枯れたように見えたその泉が再び噴水するときとなったのではないだろうか。何だかそのような思いが心の底に動いてきたように伯爵自ら感じるのでである。「アア、人間の幸福はついに、愛せられると言うことより他には無いのかもしれない。この身にもなおそのような幸福があるのかも知れない。」と自ら怪しんでつぶやいた。そうして野西将軍を通した客間へ出向いて行った。

 この場合にもし野西将軍の顔を見る人は、我知らず二足三足尻込みするだろう。一昨日の委員会から、ただ悔しさに打ち沈んで、人にも会わないほどにしていたのが、今は巌窟島伯爵を殺して自分も死ぬほかはない思い詰めて出て来たのだから、顔一面が暗く暗くゆがんで、今にも迅雷の鳴り出そうとする空のように見え、人に限りなく恐ろしさを感じさせる。

 もし人間の顔が怒りに張り裂けることがあるものなら、この時の将軍の顔は張り裂けるだろう。全身の血液がことごとく顔に上っている。それだけでなく今乗って来た馬車には二つのサーベルを積んである。
 その一つを巌窟島伯爵の手に渡し、全く指し違いの決闘を強いる積りである。

 しかし巌窟島伯爵も、前からこの様な場合に立ち至ることを考えない訳ではなかった。心に深く帰した所があるのだから、かえってこの場合が早く来たことを嬉しいというほどに思い、一度の驚きが通り過ぎてからは、我ながら不思議なほどに心が落ち着いて、単に日常通例の客を迎えるように、静かにかつ平らかな面持ちで客間に入った。そうして張り裂けるような将軍の顔に対したけれど、にこやかに、

 「イヤ、野西子爵、今日は、何の幸いで貴方の御光来を得たのでしょう。」と聞いた。将軍は伯爵の顔を睨みつけておよそ五分間ほども無言であったが、ようやくしわがれたような声で「そのような空世辞はもうやめましょう。貴方と私とは敵同士では有りませんか。」
 敵同士との一語に、さては私の本性を知ったのかと伯爵は少し驚いたけれど、「エ、何と仰る。」

 将軍;「私の昔の事柄を暴い立てたのが貴方だと言うでは有りませんか。上院の委員会に証人として怪しい女を出したのも貴方だと言うでは有りませんか。貴方はこの野西将軍に何の恨みが有って。」
 アア、何の恨みがあって、これを問うようでは未だ真に、敵同士である理由を知っているわけではない。伯爵は敵の知識の深さ浅さを知って又落ち着いた。

 将軍は益々声を張り上げて、「今日、これのために貴方は私の息子武之助と決闘をしたでは有りませんか。エ、そうでは無いと言い張りますか。」
 伯爵;「今日の決闘はそれのためでは有りません。武之助の無礼に対して、私から決闘を挑んだような次第です。」
 将軍;「その武之助の無礼がやはりこのことから出たのでしょう。彼は父に代わって貴方を懲らしめたいという孝心のために貴方を侮辱したのでしょう。それが決闘の起こりです。私は知っています。」

 伯爵;「或いはそうかも知れませんが、決闘無しに済みました。武之助は決闘の場で明白に私に謝罪しました。」
 将軍;「エ、エ」と、将軍の驚く様子を見ると、流石に武之助の従者が、将軍に向かって武之助の謝罪とまでは打ち明けることは出来なかったものと見える。

 伯爵;「その謝罪は、双方の介添人及びその場に来合わせた知人までも傾聴して充分謝罪と認めました。それだから私は決闘をせずに満足したのです。」
 将軍;「何野ために貴方に謝罪。」
 伯爵;「彼は私を憎むべき奴と思い詰めていたのですが、その過ちを悟り、真に憎むべき奴は。私のほかに有ることを知ったのです。彼のした事は美事です。過ちを改めたのです。彼はその謝罪の言葉の中に明らかに憎むべき奴を指名し、その者の卑劣な罪を非難しました。

 将軍;「その憎むべき奴とは何者です。」
 伯爵;「ハイ、彼武之助の父、陸軍中将子爵野西次郎です。」
 将軍:「エ、エ何と。」将軍の顔は全く張り裂けた。イヤ、張り裂けなかったのが不思議である。

第二百二十九回 終わり
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