巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 8.12

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百四十回、『段倉家』(六)

 いよいよ皮春小侯爵は逃げたと決まった。捕吏は失望して非常に不機嫌に立ち去った。
 ああ、この一事は段倉家にとってはどれほどの打撃だろう。実に想像にも余るのだ。野西将軍が一日で世間に顔向けが出来ない状況に立ち到ったのに比べて、優るとも劣りはしない。この後誰が段倉に近づくものか。最も名誉ある婿を迎えるように言いふらして人を集め、そうしてこの様な殺風景を演出し、客一同をして聞くも恐ろしい牢破りの前科者に殺人の大罪人に、辞宜(頭を下げる)をさせ、慶(よろこ)びを述べさせ、尊敬のある限りを尽くさせた。真にパリー中の紳士貴婦人をしてかの罪人よりもまだ低い地位に立たせたのだ。全社交界を汚辱したのだ。たとえ知らないこととしても、自分の不注意、不調査かまたは欲心から出たのだから、その罪に変わりはない。

 全く誰一人怒らないものは居なかった。大抵の人の不幸は気の毒がられ、いたわられ、悔やみをも述べられるものだけれど、今夜の段倉の不幸に至っては、気の毒と思う人が居ない。いずれも捕吏の引き上げるのを待ちかねて、あたかも恐ろしい伝染病の家からでも逃げ去るかのように急ぎ去った。

 段倉夫婦がどれほど落胆しているか、花嫁がどの様に悲しんでいるかなどは振り向いて見ようともしない。「真に失礼極まる。大極悪人の人間を我々の社会へ披露して、」と罵(ののし)る者も有れば、「我々をして、五分たりとも捕吏が戸口を守っているその中に、禁固されたと同様に立たせて置くとは、許すべからざる失態ではないか。」と怒る者もあった。

 しかしこれらはまだ軽いのである。少し落ち着いた人は段倉の財政の困難を見て取った。パリー第一流とも言われる銀行家が、もし財政が豊かならば何で軽率に、調べもせずに、この様な婿を取ることに運ぶものか。ただ財政の上に、どうしようもない困難があればこそ、結婚でもってそれを救う心を起こし、深くは身元などを調べもせずに調印式を挙げるのまで至ったのだとは、簡単に推量が出来たことである。

 今まで皮春小侯爵が大財産家と信用され、この婚礼のために段倉銀行が金の置き所も無い程に富むだろうと思われていただけに、この失敗が信用を傷付けることも激しいのだ。およそ銀行家をしてこれほど一時に信用を落とさせる事情はあまり例が無い。ほとんど店先に支払い停止の札を下げたのと同様である。なんでも段倉銀行の運命がこの月の三十日限りだとは、この夜のうちに大方全市中に行き渡った噂である。

 捕吏も去り、客も去り、がら空きとなった広い客間の真ん中に、脂汗の光る額を銀のランプの明かりに照らさせ、時の移るのも知らずただ一人考え込んだのは段倉である。彼はほとんど放心してため息さえも出ないのだ。夫人の方は泣いて自分の部屋に引っ込んだ。そうして今何をしているのだろう。又段倉は何時までもこの通り考え込んでいる。それらは顧みる必要は無い。ただ気の毒なのは花嫁夕蝉である。

 しかしその実、家中で一番悲しまないのはこの嬢であった。嬢は騒ぎの始まった時、怒った女王が退くように、威儀ある姿で傲然(ごうぜん)《おごり高ぶり人を見下すこと》として、わき目も振らずに自分の居間に引き取ったが、既に分かっている通り、前から結婚を嫌い無事に調印式さえ済ませたら婚礼が終わらないうちに網里女史と共にイタリアに逃げて行く覚悟であった。だから自分の部屋に入ってから勿論一度は悲しみもして、自分の後に付いて来た網里女史に向かい、「私には不名誉と言うことが付いて回るのかも知れない。売国奴の息子をやっと逃れたかと思えば、今度は人殺しの罪人と名をならべる様になった。」と苦い言葉をを吐いて眼に涙を光らせたけれど、それは少しの間で、すぐに気を取り直し、「サア、網里さん、直ぐにイタリアに行きましょう。誰も我々二人に気の付かない間にこの家を立ちましょう。」と促した。

 野西武之助が母と共に住み慣れた家を去ったのとは少し状況が違う。彼等は二人共暗黒へ入る旅立ちなので、心はただ悲しみに満ちていたが、こちらは悲しみの中にも気が引き立つ所がある。前からイタリアに修行に行きたい行きたいと二人で言い暮らしていたほどだから、一度悲しみが過ぎてからはもう少しも未練は無い。既に出発の準備は数日前から出来ている。

 夕蝉は身分の低い町家の娘の身なりをし、網里女史の方は男の姿となり、人が見れば平民的な新婚旅行かとも見えるように服装までも整えている。それに旅費も嬢一人の貯金が三万フラン(現在の八千四百万円)もある上、ダイヤモンドその他の飾り物などが数十万フラン(数億円)の値打ちには上るのだ。これだけを持って行けば、生涯でも安楽に暮らせる。さらにそのうちには嬢の声と女史の音楽とで立派な報酬を得ることになるだろう。

 段倉男爵がまだ客間で考え込み、その夫人がまだ一室で泣き入っている間に、この家の裏門から駆け落ちの男女と見える両人が忍び出て、通り合わす馬車に乗りいずことも無く消えてしまった。

第二百四十回 終わり
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