巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百四十三、『落人』(三)

 馳せて自分の部屋に入って、弁太郎は「もう駄目だ」と叫んだ。真に駄目なのだろう。逃れる道は一つもない。昨夜のはうまく逃れたけれど、今朝のは駄目である。どうしても捕まらなければならない。捕まれば軽い罪ではないのだから、直ぐに裁判所に引き出され、直ぐに死刑、直ぐに執行である。恐れずに入られようか。

 彼は今まで少し心に頼りとするところがあった。その一は巌窟島伯爵である。伯爵がこの身をとらわれるのを防ぐために運動してくれるだろう。その二は段倉である。兎に角その家の婿とまで決まっていたものが捕らわれて裁判所に引き出されてはその家の恥辱だから、これも何とか運動するだろう。誠に頼み少ない頼みでは有るけれど、これがあるため余ほど心が気強かった。

 今はこの頼みも駄目である。駄目な証拠には早や憲兵がこの家を取り囲み帳場から捜索を始めている。
 彼は得も言われない当惑の色を眼に浮かべて、部屋中を見回した。どこかに逃れる穴は無いだろうか。どこかによい工夫の材料は無いだろうかと。そうして目に留まったのは一方に有るテーブルとその上の紙、墨、筆である。流石悪人の本性はこの危うい場合に現れて、彼は筆を取上げるよりも早く書いた。

 「相済まない事ながら私は一銭も無い旅客です。しかし、食い逃げは気の毒なので襟飾りの金の留め針を代価としてここに残して置き、誰も起きない間に出発するので、後でこの留め針を売り払い宿賃を取りください。」とあたかも早朝に立ち去ったように見せかけ、宛名は「当旅館の番頭殿」と記し、そうして留め針を紙の真ん中に打ち込んだ。勿論憲兵がこの部屋に来れば第一にこの手紙に目を付けるだろう。

 しかし彼は自分の体をどう掻き消す積りだろう。ただ枕元に脱いである上着を引っ掛ければそれで良い。直ぐにそれを引っ掛けた。そうして丁度食い逃げをした後のように、わざと出口の戸を開け放した。ここから逃げましたと言わないばかりである。これだけの紛らわしい形跡を作っておいて、自分は直ぐに暖炉の中に潜り込み、灰に残る自分の足跡をうまく消して置いて、必死の力で煙突の中を登り始めた。

 このところへ憲兵が二人、「番頭殿」に案内せられて、やって来たが、戸の開け放しになっているのを見て、「ヤ、こやつは幸先が悪い、何だか逃げた後のようだ。」と叫んだのは若い憲兵の方だ。「払いさえもせずに」と部屋中に目を配ったのは「番頭殿」である。何より先に「払い」のことに気の付くのはこれは流石だ。年取った方の憲兵は無言で部屋に入ったのは中々思慮のある人らしい。

 直ぐテーブルに近寄って置手紙を読み、自分の手を紙の表に当ててみると、手のひらにまだインクが付く。書いた文字が乾いてさえ居ないのだ。「誰も起きない間に出発」したものではなさそうだ。彼は無言で番頭にこの手紙と留め針をとを指し示し、宿屋に損はないとの意を悟らせ手置いて、更に小声で、「直ぐに藁を一束持って来い」と命じ、又若い憲兵に向かっては、「この後ろにある寺の塔に登り、この家の屋根を見張って居ろ。」と命じた。

 やがて番頭が怪しみながら持って来た藁束を暖炉に投げ込み、マッチを擦ってこれに火をつけた。黒い煙が煙突一杯になって立ち上った。煙突の中のお客様はどうしただろう。暑さのためにも煙のためにも、もう落ちてこなければならないのに。音も無い、沙汰も無い。牢憲兵は初めて怪しんだ。「はてな、本当の食い逃げかも知れない。」

 音沙汰の無い筈だよ。お客様は早や煙突の外にいる。他の人には出来ない技だけれど、小侯爵には出来る。彼は煙突の中を這い上がって、煤だらけになって屋根に出た。ほっと息する所へ黒雲のような煙が立ち上ったので、何もかも理解して、「オオ、すんでの所で丸焼きになる所だった。」とつぶやき、これからの逃げ道はと開く目に、ぱっと映ったのはほとんど自分を頭の上から見下ろすように聳え立っている裏の寺の塔である。もし憲兵にこれに上られたら大変だ。勿論この頃の憲兵は今のと違って逃げる人を射殺す権利があった。塔の窓からピストルを出されればそれまでだと、憲兵の知恵だけの知恵は持っている弁太郎は身震いした。

 直ぐに彼は屋根に並んで突き出ている次の煙突のところまで行き、又次へ、、又次へと、ただ煙突の影を頼りとして逃げ始めたが、四番目、五番目の煙突へ身を添えたときに、塔の窓から憲兵の頭が突き出た。、煙突の陰だけでは隠れきれない。その穴へ身を入れなければ。又も彼は煙突の穴に入った。幸いこの煙突には火気も煙も無い。ここから下の部屋に出れば又どこかへ逃げることも出来るだろうとなどと忙しく思案する間に、手足が滑った。

 猿も木から落ちるというものだろう。彼の身はすさまじい物音がして、二階の一室へ落ち込んだ。落ち込むと共に、その部屋の中で魂消えるような女の声が、しかも二人の口かららしく、「アレー」「アレー」と続いて聞こえた。ハテナ、何者の部屋に先の皮春小侯爵は天下ったのであろう。

第二百四十三回 終わり
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