巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百四十四、『落人』(四)

 もしや弁太郎が落ち込んだこの部屋が空き間であったならば彼は助かる所だったかもしれない。実際彼は良くここまで逃げたのだ。 煙突を潜(くぐ)り屋根を伝い、取り囲む憲兵に発見されずして再び他の煙突に潜り込むなど、とても通常の人には出来ないことだ。たとえ必死の場合とはいえ、これほど逃げることが巧みだから、部屋の中で声を立てる人さえなければ又この上を、どの様にうまく逃げたかもしれない。

 彼が煙突の底に落ち込んだ物音と共に部屋の中に起きた叫び声は、全く二人の女の口から出たのである。部屋の一方にあるベッドの上に年の若い美しい女が、二人抱き合って眠っていたが、もう目が覚める時刻の所に、ただならない物音がしたので二人とも我知らず驚き叫び、寝巻きのままで転がるようにベッドから争い降りた。

 弁太郎の方も実はこの叫び声とこの有様とに驚いたけれど、彼は驚いてなどいられる場合ではない。暖炉から出て相手が女だけにかえってしやすいと思ったか直ぐに平身低頭で二人に近づき、充分声に哀れみを聞かせて、「どうか嬢たち、人を一人お助けください。少しの間ここへ私をお隠しくださらなければ、私は命がない事になります。まあ声などをお立てなさるな、何も怖い人間では有りません。」

 女の一人は又叫んだ、「アレ、昨夜の小侯爵、イヤ皮春永太郎ですよ。嬢様」
 弁太郎は前よりも更に驚き、こう言う女の顔を見れば昨日まで段倉家に居た網里女史で今一人、女史の後ろにあきれた顔で立っているのは昨夜自分の妻として生涯の運を定める、イヤ、運を失うところであった、段倉夕蝉嬢である。何ゆえ二人はがここにいるのかという事も我先に行ったと聞いた馬車がこの二人であったことも、たちまち弁太郎には納得できた。

 「貴方がたの部屋へこの通り落ちて来たのは天の命です。よもや天命に背いてまでも私を助けてくださらないとはおっしゃりますまい。」何という厚顔な言い方だろう。気丈な夕蝉嬢は恐れもしない。かえって腹立たしそうに弁太郎の顔を睨(にら)みつけて、「悪人、悪人」と叱った。叱るだけではまだ腹が癒(い)えない。網里女史の方は度を失った様子で、直ぐドアの所に行き、呼び鈴の線を切れよとばかりに引き立てた。

 この時帳場の所には、先ほどの老憲兵が不審な顔で立っていたが、激しい呼び鈴の鳴り方に忽ち二階のほうを見上げ、「や、や、変だぞ。」言う所へ塔から一人憲兵が馳せつけて来た。「屋根へは姿が現れません。ことによると又他の煙突に隠れたのではないかと思います。」
 老憲兵は「占めた」と叫び、外にいる二人の手下を呼ぶより早く、一度に階段を二個づつ飛んで二階に上がった。

 二階では今まさに弁太郎が二人の女を困らせている所である。「私が捕らわれれば夕蝉さん。貴方のお名前にもかかわるでは有りませんか。どうかして助けてください。憲兵に追い詰められた所ですから。」腹を立てても女は女だけだ。それに自分の名の汚れるのも恐ろしい。深くは思案も行き渡らないけれど、「では今来た道からお帰りなさい。後で憲兵が来ても何にも知らないように応えますから。」と言い煙突の所を指差した。

 いかにも弁太郎にとっては元の煙突より他に道はない。彼は又暖炉の所に駆け寄ったけれど、もう遅かった。「ここにいる。ここにいる。」と連呼して老憲兵が先に立ち、戸を蹴破る程の勢いで入って来た。そうして手も無く弁太郎を捕えた。いよいよ駄目と諦めて弁太郎は、「もう素直に捕ると言って手を差し伸べて、素直に手錠をはめられたのは中々捕縛せられるのに慣れたものだ。

 二人の女は手を上げて顔を隠した。実に見ているのに忍びなかったのだ。こうなると弁太郎は悪人の本性といえども少しの情けも無い。今、夕蝉嬢から元の道を逃げよと言われたそのやさしい言葉の恩をさえ感じずに嬢に振り向き、「夕蝉さん、お父さんやお母さんにお言付けは有りませんか。私は馬車に送られてこれからパリーに帰るのですが。」

 夕蝉は網里女史に抱きついて女史の胸に顔を埋めた。実にどれ程か辺りの人に恥ずかしいことだろう。なおも弁太郎は減らず口で、「有難うとか何とか返事しても好いでしょう。昨夜まで私と夫婦になる所だったではありませんか。」牢憲兵は「黙れ」と小突き回すようにして後の語は言わせずに引き立てた。

 ああ、これが弁太郎の捕縛せられた実情である。昨日まで皮春小侯爵として到るところに尊敬された身が、打って変わって恐ろしい殺人の罪人として裁判所に現れる日には、パリーの全社会を動かさずには止まない。きっと傍聴席には紳士貴婦人の黒山を築くだろう。それだけではない、彼が身は秘密又秘密に纏(まと)まったようなものだから、どの様なところへどうとばっちりが行くかもしれない。

 それはさて置き、二人の女はこれから二時間の後に、網里嬢も今度は女姿に返って、濃いベールに顔を隠して、この宿の入り口から馬車に乗り、その上に馬車の戸まで閉じてここを出た。それでも噂を聞いて集まった群衆の人は我先にと馬車の戸の中を覗いた。両女は消え入りたい気持ちで馬車を急がせ無事に外国へ着いたとの事である。

第二百四十四回 終わり
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