巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu251

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 8.23

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百五十一、『段倉の笑顔』 (二)

 呻(うめ)いていた段倉は、慈善協会長の入り来たるを見て、又も急に寿命を絞りだすような笑みを浮かべて、これを迎えた。心の底は慈善会長を掴(つか)み殺したいほどにも思うのだろう。
 そうして慈善会長が一語も発しない先に、「貴方は今廊下で巌窟島伯爵にお会いなさったでしょう。」と問うた。少しでも言葉を紛らわせ、思案の猶予(ゆうよ)を得たいのだ。

 協会長;「アア、今の方が有名な巌窟島伯爵ですか。えらい金満家だと聞きますが。」
 段倉;「金満の上に慈善家です。毎年慈善のために五十万は費やすでしょう。貴方が孤児や貧民のために寄付を申し込むには最適です。私から紹介の手紙を書いて上げてもかまいません。」
 協会長は喜んで、「アア、それはぜひ書いていただきましょう。幸いなことには我々の事業も追々世の同情を得て来まして、既に野西夫人のごときは、」
 段倉は耳を立てた。「エ、野西夫人とは、あの露子夫人ですか。」

 耳を立てるのも無理は無い。彼は野西将軍の自殺から以来、何だか異様に神経を動かしている。そもそも野西と自分とは同じような出身で、二十余年前、マルセイユに居たときからの付き合いで、その後は互いに名誉や金銭の競争のため、心が打ち解けない所もあったけれど、その人が前代未聞の汚濁を受けて自殺まで遂げたとなっては何だか隣の家に火が付いたような思いもする。その上に自分の家が僅かの間に土台から傾いて思わない災難ばかり続き、為すことが総て食い違いを生じるこの頃の不運を思うと、いくら悪人でも心細くないわけは無い。

 これだけでない、同じようにマルセイユに縁があってほぼ似通った出世を遂げた蛭峰家でさえも少しの間に四人まで死人を出し、確かに運勢が傾いたことが見えすいている。それも普通の傾き方でなく、気味の悪いような傾き方である。本来ならば、今日の華子嬢の葬式にも自分は行かなければ成らないはずであるけれど、弁太郎の件以来、公衆の前へ顔を出せば、直ぐにその顔に人の笑いが掛かる様な気もさせられ、当然こちらから遠慮すべき境遇とはなっている。それこれを思い合わすといよいよもって居心地が悪い。それでも笑い顔を作って居なければならない。「ままよ、今夜の中に逃亡するのだ。」と彼が心の底に据(す)えた度胸である。

 飛ぶ鳥を落とすとまで言われた段倉銀行の主人が今夜にも逃亡するとは協会長の思いも寄るところではない。彼は珍聞を披露する人のように、勿体をつけて身構えて、「そうです。露子夫人です。夫人とその息子武之助とは野西将軍から残された財産を一文残らず慈善協会に寄付をしました。実に美談では有りませんか。」
 段倉の耳には美談と言うことが理解できない。ただ馬鹿げた所行のように聞こえる。「シタガ総額はどれほどです。」
 協会長;「現金は十四、五万ですが、邸宅財宝、それに株券を加えれば、全体では五百万以上です。何しろ篤志(とくし)の至りですから、協会では七百万と評価して受け取りました。」

 その七百万を俺にくれればと段倉は喉から手が出るほどに思った。「オオ、七百万と言えば、今日私は五百万を受け取って行かなければなりません。」と協会長は自分の用事を思い出した。段倉はこともなげに「今日でなくても明日でも好いのでしょう。」
 協会長;「ハイ、明後日総会があるのですから、明日中に取り揃えておけば好いのですが。それが為には今日受け取りますほうが。」
 段倉は我前にある巌窟島伯爵の受け取りを捻(ねじ)り回しながら、「何ね、貴方へ当てて五百万だけ中央銀行から今朝取り寄せて置きましたけれど、巌窟島伯爵が急に入用だと言うので貸してやりました。これこの受け取りが現金ですから直ぐに中央銀行に行けば好いのですが。」

 五百万や千万の金は塵芥(ちりあくた)と思うように見せかけている。
 協会長;「では待っていますから中央銀行から取り寄せていただきましょう。」
 段倉は驚き入って驚かない。「よろしい。取り寄せましょう。」言いながら呼び鈴を押しかけて、又思い出し、「その代わり今日ならば貴方は五万フラン損をしますよ。」
 協会長;「エ、それはなにゆえ。」
 段倉;「イヤ、私と中央銀行の間には、一日に五百万より以上取り出せば百分の一の手数料を払うことに決めてあります、だからその手数料の五万フランだけは貴方に負担して戴(いただ)かなければーーナニその代わり明日ならばそのようなことは有りませんけれど。」

 五万フランの負担がどうして協会長に出来るものか。五ヵ年間の月給ににも当たるのだもの。しかもただ一日の差でそれを取られるとは恐ろしいほどに思われる。彼は身を震わせて、「それはたまりません。明日で宜(よろ)しい。宜しい。」と言って早や立ちかけた。もし外へ出て人に聞き、五万フランの手数料などとその様な理不尽なことが有るものかと言い聞かされ、引き返して来る様な事があっては大変だから、段倉は直ぐに釘付けにするような手段を取って、「少しお待ちなさい。巌窟島伯爵に紹介状を認(したた)めてあげましょう。少なくても二十万以上は寄付するように。」こう喜ばせておけば大丈夫ある。協会長はホクホク喜び、段倉が認(したた)める紹介状を持ち、虎の子のように納めて去った。

 段倉はほっと息して額の汗を拭き、「自分ながら、手も有れば有るものだ。」と言って笑った。今度は寿命に関係の無い笑いらしい。そうして直ぐに又筆を取り長々の手紙を認(したた)めたが、これは妻に宛てた書置きである。次には机の引き出しから旅行券を取り出して、「ああ、まだ期限が切れていない。」と改めた。彼は巌窟島伯爵の受け取り証を持って直ぐに他国へ出奔(しゅっぽん)してもローマの富村銀行へ立ち寄り伯爵の受け取り証と引き換えに五百万フラン受け取れば他国で再び旗揚げして、この国へ又銀行王となって帰ってくることも出来るように自信している。生憎(あいにく)そのローマが、真に自分の仇きを取られる土壇場(どたんば)であったならどうだろう。

第二百五十一回 終わり
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