巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu253

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 8.25

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百五十三、『大尉と伯爵』 (二)

 伯爵が森江大尉を真にわが子のように思っている事は、今までの一切の所行で良く分かっている。大尉がもし自殺すれば伯爵は自分の一命の半分を失った気がするだろう。
 どうしても大尉を救わなくてはならないとの決心で、見え隠れに尾行していくと大尉はついに自分の家へ入った。
 五分ほど遅れて伯爵はその家に着いたが、見れば門の内に大尉の妹である緑夫人が僕(しもべ)に指図して草花を植えさせている。これに向かって大尉の事を問うと、「今帰って来て自分の部屋に入ったようです。」との答えである。「そうですか。」と何気なく頷(うなず)いて直ぐにその部屋を指して上って行った。

 勿論伯爵は日頃から我が家のようにこの家に出入りしているから、こちらに遠慮も無ければ、向こうに気兼ねも無い。大尉の居間は離れ座敷の二階である。伯爵は足音を潜(ひそ)めて階段を上り、先ずガラス戸の外から覗(のぞ)いたが、中では大尉が忙しそうに書状を認(したた)めて居る。そうしてそのそばにはピストルを置いてあるところを見ると、自殺の前に妹か、その夫かへ、一筆書き残すものであろう。

 もう少しも猶予(ゆうよ)は出来ない。書いてしまえば直ぐにピストルを取り上げるのに違いない。とはいえ、戸には錠が掛かっているのだから、引き開ける事は出来ない。もし呼びかければ大尉が振り向き、伯爵の顔を見て、もうその意を察しているから、戸を開けずに」直ぐに自殺してしまうだろう。それは日頃の気質で推し量られる。

 困難のあるたびに、咄嗟(とっさ)に知恵の働くのが伯爵の持ち前である。直ぐにこぶしを上げ、鉄槌のごとき勢いをもってガラス戸を叩き壊した。そのすさまじい物音に流石の大尉も驚いてこちらを向いた。伯爵は軽く笑み、「余り廊下の拭き掃除が好く届いているものだから、ツイ滑ってガラスを一枚壊しました。」と言いながら、その割れ目から手を入れて掛け金をはずし、こともなげに中に入った。大尉の不興は並大抵ではない。

 先ず伯爵は辺りを見回し、「貴方は自殺するお積りですね。」
 大尉;「旅に立つ積りです。」
 伯爵;「旅に立つものがピストルとは何事です。書き置きは何の為です。」もう隠しても隠しきれない。
 「私がどうしようと、それは余計なご心配です。」
 伯爵;「イヤ、貴方の心中は察しますが、しかし自殺は早すぎます。貴方は一度、私に何もかも任せたでは有りませんか。私の手にどの様な力があるのかも知らずに、短気な事を考えてはいけません。兎に角気を長くして、―――」

 大尉は辛抱が尽きたようである。少し怒りの調子となり、「貴方にどの様な力があります。人間社会のことは皆自分の手の中にあるようにおっしゃって、華子が毒殺されるのさえ止めることが出来なかったでは有りませんか。貴方を頼みにさえ思わなかったら、例え花子は死ぬにしても、私の介抱を受けて死ぬ所でした。ただ貴方を信じたばかりに、私の知らない間に死んだのです。私は華子の末期に、一言も慰めてやることさえ出来なかったのも、全く貴方のためだと思います。もう貴方を信用しません。いくら邪魔しても無益ですから、この部屋をお去りください。全く私は自殺するのです。お去りくださらなければ、貴方の目の前で自殺するばかりです。」

 散々に伯爵を罵(ののし)った末、手早くピストルを取り上げた。もし伯爵に、人間以上の非常な力でもあるのでなければ、最早どうしようもないと思われた。けれど伯爵は騒がない。あたかも人間以上の力でも持っている人のように落ち着いている。そうして、非常に厳かな声で、「そうはさせません。お待ちなさい。お止めなさい。」
 真に当然命令する権利でもあるような語調である。

 大尉;「貴方は何の権利をもって他人に干渉するのですか。余計です。余計です。」
 伯爵は恐ろしいほど厳しい声で、「サア、私は誰でしょう。広い世界にただ一人貴方に向かい命令する力を持った身分です。真太郎、真太郎、森江良造の子である者がこの様なことで、父の与えた貴重な命を失うとは、決してならぬ。」
 父の命令と言ってもこれほど厳重には聞こえない。大尉は異様に心が動き、「父の名を勝手に用い、そうして父の言うようなことを言う。貴方は、貴方は、何者です。何ゆえに父の名を」

 伯爵;「オオ何ゆえに、丁度貴方の父が、今の貴方の通りにピストルをもって自殺するばかりになっていたのを、止めたのが私です。父の自殺を押し留めた私は子の自殺をも押し留める権利があるのです。貴方の妹緑嬢に赤い皮の巾着を授けたのも私です。巴丸の亡びた後で、同じ巴丸を作ってマルセイユ港に入港させたのも私です。貴方がまだ幼い頃、膝に抱き上げて守ををしたのも私です。貴方の父上の信任を得て、父上のするだけのことは何でもするように許されていた団友太郎は私です。貴方は父上が死に際につぶやいた団友太郎という名を忘れましたか。私が団友太郎です。今日は昔父上に許されたその力をもって貴方のことにも干渉するのです。」

 大尉はピストルを投げ捨てた。そうして椅子から転げ落ちた。更に立ち上がりはしたけれど、よろめいている。よろめくまま戸口に行き、母屋の方に向かい、声を限りに、「緑、緑、江馬さん、江馬さん、早くここへ、早く。」と呼び立てた。二十余年を経た主従の名乗り合いはこれである。

第二百五十三回 終わり
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