巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu254

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 8.26

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百五十四、『大尉と伯爵』 (三)

 人間業ではない、神の業だと一同が思うまでの不思議な手段をもって昔この家を救った大恩人がこの巌窟島(いわやじま)伯爵であったのか、更にこの岩窟島伯爵がその又昔の団友太郎であったのか。
 今まで何者とも知らないながらもこの一家はその大恩人を神と立て、明け暮れに拝まないばかりに敬っていた。今その人が目の前に現れたとあっては、驚かずには居られない。森江大尉がよろめいて戸口に行き、妹とその夫とを呼び立てるのも無理は無い。

 何事かと緑夫人と仁吉とは馳(は)せて来た。直ちに大尉はこれに向かい、「サア、平伏して、平伏して。」と言い、訳も言わずに先ず二人を伯爵の前に膝を折らせ、「父上を救ってくださった大恩人がこの巌窟島伯爵だと分かった。やはり父上が言われたとおり団友太郎であった。サア、日頃お礼を言いたいとそればかり心がけていた我々一同、早くお礼を申さなければならないじゃないか。」

 余り咳き込んだ言いように二人はは急には理解することが出来ないほどだったが、ようやくそれと分かるにつれて、江馬は右から、緑夫人は左から伯爵の手に取りすがった。なかでも緑夫人の方は伯爵の顔をつくづくと眺め、「そうおっしゃれば、あの時私に船乗り新八と言う名前で手紙を下さった方の顔がどうやら貴方の顔にーーーオオ、その手紙の指図に従い、私はその以前に団友太郎の父が住んでいたとやら言う家に行き、赤い皮の財布を授かりました。」

 仁吉も薄々思い出したか、「富村銀行の書記とか手代とか言ったのもやはり貴方でーーー。」
 大尉;「そうとも、そうとも、新しい巴丸を入港させてくださったのもこの伯爵。」
 仁吉;「何とお礼を申してよいか。この通りでございます。」ほとんど額を床に付けた。
 
 真に有難涙にくれるとはこのことだろう。しばしがほどは部屋の中はただ一同の涙に咽ぶ声が聞こえるだけだったが、緑夫人はようやくに再び伯爵の顔を見上げて、「それならそうと、早く知らせてくだされば、今までにお礼の申しようも有りましたでしょうに。」伯爵も感慨に鼓動するような声を発し、「イヤ、私は何時までも言わずに居るつもりでしたのに、大尉が私の口からこの秘密を搾り出したのです。」

 仁吉;「これほどの大恩を授けて下さって、それでお礼を申すことさえ出来ないように、何時までも隠しておいでなさろうとは、余りの事で意地悪に当たります。
 伯爵;「イヤ、全く私はお礼など言われては済まないと思いましたが、今こう分かって貴方がたからこのよな言葉を聞けば、過ぎ去った二十余年の艱難辛苦もその甲斐があったと思います。私の胸には人生に対する不平の塊が満ち満ちていますけれど、今日は氷が解けるように融けて、初めて幸福の何かということが分かりました。」

 全くその言葉の通りに嬉しそうである。そのうちに一同の心もやや落ち着いた。緑夫人は願うように、「どうか貴方は我々の保護神として、何時までも永くこのパリーにお留まりください。先だってのお話では遠からずどこかへお立ちのようにも伺いましたが。」
 伯爵;「ハイ、私は、善人に賞を下し、悪人には罰を下すと言う目的のため、このパリーへ来ていますが、程なくその目的も届きましょうから、その時は又他国へ立ち去らなければなりません。」

 緑;「それではあんまりお別れが惜しいでは有りませんか。」
 伯爵;「その代わりに私の行くときは、この大尉を同行して行きますよ。」
 何時まで話しても言葉は尽きない。けれどそう手間取っても居られないので、伯爵はしかるべき言葉を設け、大尉を連れて庭に出た。そうして辺りに・・・人の居ないのを見定めて、「もう心を取り直しましたか。」と聞いた。

 大尉は恨めしそうに、「ハイ、貴方に免じて、ピストルで自殺すると言うことだけは止めましょう。けれど、伯爵、私は到底長くは生きていられません。悲しみのために段々魂が消えて行く様に思いますから、自然の死を待つことに致します。」

 伯爵;「イヤ、それが悪い。それだから心を取り直せと言うのです。一度死を決した人は誰でもこの後にも心が休まることは無いように思います。たとえば貴方の父上がピストルを取り上げて時計の針を見つめていた時に、誰が何と言ったとてこの世に生きながらえることが出来ようとは露ほども思わなかったでしょうけれど、実際に生きながらえる道が出来て、その後を楽しく送ったでは有りませんか。」

 大尉;「それは貴方があったからです。貴方の力で天佑(てんゆう)《天の助け》が降ったためです。」
 伯爵;「貴方もやはり私をお信じなさい。」
 大尉;「でも私の場合は違います。既に華子が葬られた後で、何処から慰めてくれる者が出て来ましょう。もう天佑を信じる期限が過ぎました。」

 伯爵;「イヤ、そうではない。私は永くとは言いません。今からただ一カ月の間、私を信じて下さい。そうですね今日は九月の五日ですから、十月五日まで気を取り直してお待ち下さい。必ず貴方の前に心の慰むような者を出し、アア生きていて好かったと思わせて上げますから。」

 大尉;「もし、その時に、その慰める者が出てこなかったら。」 伯爵;「そのときには私が、貴方の前にピストルを出し、サアこれで自殺なさいと言って上げます。」
 大尉は初めて納得した。「よろしい。どうせ死ぬと決まった命、一ヶ月待たれないと言うことは有りませんから、大恩人である貴方のお言葉に免じ、一ヶ月待ちましょう。」
 伯爵;「その言葉をお忘れなさるな。」
 大尉;「忘れません。十月の五日ですね。」
 伯爵;「ハイ、十月の五日の午前十時までです。」と言って互いに固く言葉を交え合った。

第二百五十四回 終わり
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