gankutu256
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
二百五十六、『獅子の穴』 (一)
地に落ちる千万点の雨の粒は、皆思い思いに草を打ち、木に留まり、屋根を洗い、土を濡らすなど別々の目的を持っているように見えるけれど、何時の間にか地の凹(くぼ)い所に流れより、そこここに集まって溜まり水とはなるのだ。その溜まり水が、又そこからここからと次第次第にどぶに落ち、どぶから溝へ、溝から河へ、河から海へと、果ては浩々たる唯一つの大洋に流れ入り、合して大いなる水となってしまう。
もしこれが草の葉の上にただ一点留まって、落ちもせず流れもせずに居る時に有っては、誰が見てそのついに大海に注ぐ運命を持っているものと思うことが出来よう。
巌窟島伯爵を中心としている、この長い物語も丁度それである。点点の雨のような細かな沢山の事柄が、一粒一粒皆大海に落ちて行きつつあるのだ。しかもその大海はもう遠くはない。
小侯爵といわれた弁太郎の裁判、大検事蛭峰の身の上、逃亡した段倉の行方などが、その大海の波瀾である。その波瀾がどの様に巻き起こってくることやら、粒粒の雨を見ただけでは分からない。けれど、粒々の雨から見ていかなければ又分からない。とは言え、粒粒の雨は、最早大体見尽くした。残るのはただ一、二点である。
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弁太郎が捕えられて何処の獄にいるかは係官のほかに多く知る人はいないが、その実、彼は至急に裁判に附せられるため、ラ・フォース監獄の一部サンベルナーとい区画に入れられている。この区画は重い見込みの衆人だけを置く所で、俗に獅子の穴と異名する。そのいわれは囚人がややもすれば檻の中の獅子のようにかんぬきをかじったり、番人に噛み付いたりするためである。これだけでこの穴に入れられる者がいかに絶望し煩悶ししているかがわかる。
けれど弁太郎はさほど絶望しては居ない。彼は確かに、自分の身へ大いなる保護者が付いていると信じつめているのだ。保護者がなければ今までの自分の身の波瀾が分からない。何の足場と言っても無い身をもって夢のように小侯爵となり、夢のようにパリー第一流の銀行家の婿とまで経上った。ただ最後の今一歩と言う所で階段から滑り落ちたのは全く自分が悪かった。
毛太郎次のような者を殺した為である。イヤ、実は自分の運がまだ塾さなかっただけだ。毛太郎次を殺さなければならないような破滅に到り及んだのは不運であった。きっとかの保護者はこの身の失敗を残念に思っているだろう。この身が自ら思うよりひとしお切に思っているかもしれない。
そうすれば今この身が監獄の底に沈んでいると言っても保護者は決して見捨てないだろう。その大金力と大勢力とをもって必ずこの身を救うに違いない。
こう思って彼はその身なりなどもやはり婚礼の当夜のを着け、紳士然小侯爵然と構えて、或いはハンカチで靴を拭って光らせたり、小石で爪の先を磨いたりしている。もっともコンベーインの宿屋で二度まで煙突を潜った為コートやズボンは仕立て卸とは見えないけれど、それでもチリ一つ止めては居ない。獅子の穴と言われるこの獄にこの様な垢抜けのした人の居るのはこれがほとんど初めてだろう。
しかし、この様な間にも絶えず彼の気になるのは、その保護者が誰だろうと言う疑問である。それは確かに我父に違いない。我が身には秘密の、本当の父があるのだ。その父は誰だろう。誰であろうと探し出さずには置かない。どうしても探しだす。探し出して、我が身を私生児にした恨みをも報い、我が身を何度も牢に入れるほどの情けない境涯に捨てて置いた惨さをも思い知らせてやら無くてはならない。これを思い知らせた後にこそ、親は親らしく子は子らしくなるにもしろ、この身の運はその上でこそ開きもしろだ。
既に入牢から数日を経て、この様な見込みは持ちながらも、なお淋しさ、心細さに耐えられなくなった頃、面会を求める人があると言って呼び出された。面会を求める人と言えば決して判事や検事ではない。何でも保護者からの使いであろう。保護者ががこの身に気を挫かせないために、慰めとして人を寄越したのに違いないと、彼は早や胸の中が躍(おど)るような心持して、牢番に導かれて面会室に入った。
第二百五十六回 終わり
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