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巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
二百六十一、『裁判』 (三)
「シタが汝(なんじ)《貴方》の職業は」アア職業は何であろう。弁太郎はこの時を待ち受けていたらしい。
彼は満場に聞こえる冴(さ)えた声で、「私に職業と言うものは有りません。けれどもし糊口(ここう)《生活》の道立てて行く仕事をば職業と言うならば、私は最初は詐欺師でありました。詐欺の手段で糊口しました。次には窃盗に転業しました。詐欺の職業はあまりに手数が掛かりますので、それで簡単に人のものを盗むことに改めたのです。そうして近い頃では、又その業を替え人殺しとなりました。人殺しとなったためこの通り法廷に引き出されるに至ったのです。後にも先にもこのほかには職業は有りません。」
何という恐ろしい答えだろう。およそ法廷が開けて以来、この様な陳述は無い。裁判長さえも、一事は驚いて顔を背(そむ)けた。陪審員はあきれて嘆息(たんそく)《ためいき》した。傍聴人は顔と顔を見合わせた。この中に蛭峰大検事はどうしているだろう。誰も彼の顔を見る者は居ない。しかし彼は一同の中で最も驚いた一人である。忽(たちま)ち顔を青くして、次に赤くし、そうしてついに手を上げて額を抑(おさ)えた。多分頭が割れるように感じたのだろう。これでもまだ落ち着くことは出来ない。何か発言したそうに立ち上がって又座り直した。全く落ち着くところが無いと見える。
一人この様子を見て取った弁太郎は最も恭(うやうや)しい態度で、「貴方は何か品物をお探しですか。」と聞いた。真に蛭峰の動作は物を探している様に見立てるべきだ。けれど蛭峰は返事をしない。やがて裁判長は叱るように弁太郎に向かい、「お前は罪み重いのを自慢にするのか。自分の罪をいやがうえにも誇張して人を驚かせ、そうしておいて自分の名前を名乗る積りなのだな。サア、名を申せ。」
弁太郎は何処までも恭しく構えて、「イヤ、裁判長閣下、閣下のお察しには敬服致しました。いかにも私は身の汚(けが)らわしいことを述べて、その上でその汚れた家名を述べる積りです。私の数々の汚らわしい行いが誰の家の名を汚したか、又何のために出たかという点に深く御注意を願います。」
実に、妙に迂遠(うえん)《まわり遠い》な言い方である。しかし何のためにこの様なことを言うのだろうと、不思議がり怪しむ傍聴人の不審の念はほとんど頂点に達した。
裁判長;「サア、姓名は」
弁太郎は少し悲しそうな調子を帯び、「裁判長閣下、私は自分の姓名を知りません。イヤ、姓名が無いと言うのが適当でしょう。私は父からその姓を与えられず、名をも付けられたことの無い身です。父の姓名ならばお答えします。」
満場は針の落ちるのも聞こえるかと思われるほど静かになった。どの様な父の名だろう。
裁判長;「しからば、父の姓名を言いなさい。」
弁太郎;「私の父は大検事です。」
低い細い声だけれど満場に物凄く響き渡った。
裁判長は又驚いた。そうして自分よりも蛭峰大検事がどの様に驚いているかには気を付ける暇が無い。実に蛭峰の顔の騒ぎ方は非常なものである。
裁判長;「ナニ、大検事とな。大検事とな。」繰り返して問うのももっともである。
弁太郎:「ハイ、大検事の職に居ります。ここでその姓名を言いますからお聞き取りを願います。姓は蛭峰、名は重輔、確かに職務は大検事と存じます。」
今までは傍聴人も陪審員も、陪席判事も、ただ裁判所の尊厳を思うために自ら制して静まっていたけれど、この一語を聞くに及んで全く何もかも忘れた状態である。一同の口から一時に様々な声が出た。驚いて叫ぶのもあれば、被告の横着を叱るのもあり、「これは意外」と口走るのもある。けれど、全体において、被告を余り乱暴だと思う人が多かった。
しかし、被告は平気である。今この騒ぎが静まらなければ自ずから自分の言葉が通ることになると堅く信じているらしい。けれど容易には静まらない。裁判長は声を限りに叱咤(しった)した。「その方は裁判所の威厳をを無視して、その秩序を乱そうとするためにそのようなことを申すのか。この様に法廷を騒がすとは実に後々に悪例を残すと言うもの、不届きである。」
けれど、弁太郎の言葉は、効能が無くはなかった。幾多の人々が争って蛭峰大検事の様子を見た。中には直ぐ彼の所に駆けつけた人もいる。実に彼は気の毒である。ほとんど椅子の面に沈み込み、起き上がることが出来ないのではないかと怪しまれた。勿論人々は彼をば理由無く侮辱されたものと思っている。従ってできるだけ慰めの言葉を加えもした。励ましもした。そうして充分な同情を加えた。
この間に傍聴席では一人気絶した婦人がある。顔は濃いベールに隠れていて誰だかわからない。けれど、隣人が直ぐに嗅ぎ薬を嗅がせたため我に返り、誰の厄介も受けない事になった。しかし弁太郎の油断無い目は直ちにこの婦人に注いだ。長く見つめはしなかったがこの婦人と蛭峰の顔とを等分に眺め分けた。
そのうちに全体がやや静まった。そうと見て弁太郎は裁判官の叱(しか)りに答えかたがた満場へ言い訳をするように、その淀みの無い言葉をもって、「私は別に法廷を騒がせる心など有りません。ただ正直に裁判長のお問いに答えております。知ることは知ると言い、知らないことは知らないと申し、少しも事実でないことは加えません。これで法廷が騒ぐのは私にとっては致し方有りません。或いは私が、父の名を持ち出したのが悪いのでしょうか。これは自分に姓名が無いのですから、父の名を申し立てる外有りません。私の父は大検事蛭峰です。私は間違いの無いようにもう一度言い直します。言い切ります。私の父は大検事蛭峰重輔です。私はここでその証拠を提出すること我出来るのです。」
彼の言葉には力が有る。確信がある。熱心さがある。満場はこの言葉に圧せられたように又静まった。
第二百六十一回 終わり
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