巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu263

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百六十三、『裁判』 (五)

 人跡絶えた空谷といっても、この時のこの法廷ほど静かではないだろう。誰一人何の物音もさせない。裁判長は弁太郎が目をしばたくのをも知らない振りで、「それから」と後を促した。
 弁太郎は、真に感慨《身にしみて感じること》に我慢できないような語調で、

 「裁判長閣下、その後のことは私は自分ながら情けない思いがして詳しく述べることが出来ません。ひとえに閣下のお察しを願います。私はこの様にしてコルシカ島に立派に育てられました。ハイ、立派に育てられたと言っても好いのです。捨てた本当の親の薄情とは違い、拾った義理ある親は実に善人でした。親切でした。親身も及ばない慈愛をもって私を育てました。

 もし私が人並みの人間ならば、必ずその慈愛に感じ、愛に染まり、心も清い普通の人間になることが出来たでしょうに、悲しいかな私は生まれた時の事情が既にねじけていたように、心の底にどこか到底人並みには伸びることが出来ない曲がった所が有ったと見えます。

 どうにかして善人にならなければならない、どうにかして育ててくれる人の恵みを思わなければならないと、朝に夕に心には思いながらも、段々悪い方に傾きました。実に私は情けないと思いました。この様なことでは、行く末がどうなるだろうと人からも心配され、自分でも恐れましたから、ある時、養父母の前で、イヤ、この時はまだ養父母とは知りませんでした。既に私は十三,四歳でありました。けれど本当の父母だとばかり思い、その前で泣いて叫びました。

 どうしてこの身には天が心の底に悪い罪悪の種を植え付けたのだろう。自分で除こうとしても、その種を取り捨てることが出来ずにただ日々のその種が増長して自分の一切の善心を皆枯らしてしまうような気がする。本当に神が恨めしい。なぜこの身にだけ、人と違ってこの様な強い悪の種が天賦(てんぷ)《天から授かったもの》されたのだろうと言いました。

 全く私は腹の底に悪魔の卵を抱いているように感じました。その卵が自分の意にかかわらず日々成長するように感じました。その卵さえなければ、或いは善人であったかもしれません。どうか善人になりたいというのが私のただ一つの願いでした。それなのに悪の方が次第次第に増長するから情けないでは有りませんか。

 養父母は私がこのように悔しがり、天を恨み、神を罵(ののし)るのを聞きかねたものと見え、ある日私が泣き入っている時に言いました。お前はそのように神を恨んでは罰が当たる。又自分の身を恨むのには及ばない。お前の心の底に悪魔の種を蒔いたのは神でもなければ、お前のせいでもない。全くお前の父の過ちが子に報いたというものだ。

 生きながらお前を地獄に埋めたため、お前は地獄の底で悪魔の息を吹き込まれて生き返ったのだ。もし恨むならば、お前の父を恨めと、こう言われました。これから私は全く絶望し、到底真人間にはなれないものとただ父をのみ恨みました。

 父を恨むのが無理でしょうか。何で父は、罪悪の中に私という種を落とし、どうしてその身の非を悟ることはせずに、生まれるや否や私を殺したのでしょう。どうして悪魔の息を吹き込まれてこの世に出るように私を生き埋めにしたのでしょう。その後というものは、私には少しも人間らしい心持の無いことになりました。自分一身が全く悪魔になってしまったかと思いました。

 それでも又時々は様々な事情にも会い、消えかかっている善心が動いて、アア今度こそは善人に立ち返ることが出来るかもしれない。今度こそはこの一段を飛び越えれば悪魔の網から逃れ出られるかもしれないと、この様に希望を起こしたこともありますが、悪魔の子には到底人並みに神の恵みや人の愛を得る時は来ないものと見え、何時もその希望が無駄になりました。

 そのたびに私は益々父を恨む心が起こりました。その心がやはり悪魔の心から出るのでしょう。この頃に至り、皮春小侯爵などと人に言われるようになっても、やはり今度こそはこれで善人に返りたいと祈らないでは有りませんでした。こう言えば身分を騙(かたる)《いつわる》ような悪人に、この様な心が有る者かと疑う方も有りましょうが、これだとて私が自分から騙(かた)る気が有って騙ったのではなく、色々な事情や色々な人が、私の知らない間に、私を皮春小侯爵と押し立ててくれたのです。

 それだから或いは天の助けが来たのかと喜びました。その後は天の力か悪魔のの仕業か自分でも理解が出来ないほど、運が開け助け、高い高い所に引き上(の)ぼされるような気がしましたので、いよいよ悪魔の網が切れ、人間の中に掬(すく)い取られる時が来たとひたすら喜んでいました。

 ところがどうでしょう、やはり悪事は悪に終わり、今度は死刑の宣告を待つ罪人として、人も有ろうに、自分の父から論告され、罪の上に罪を数えられることになりました。勿論私は罪が有るため罰せられるのは当然です。けれど、私は今この瞬間に置いてほど、父の憎さをしみじみと感じたことは有りません。論告される私が罪でしょうか。論告する父が罪でしょうか。

 裁判長閣下。これだけの事実によって、もし益々私を憎むべしとすれば、罰してください。悪魔は悪魔のように滅ぼされます。もし哀れむべきものとすれば、再び真人間に返る時間をお与えください。」
 ほとんど陳述ではなくて弁論である。裁判長はそう長くは言わせては置かれないと見てか、「シタガお前の母は。」と直ぐ問うた。
 母と聞かれて弁太郎は、得もいわれぬ《何んともいえない》悲しみを帯び、

 「どうか母の事はお問いくださるな。母に何の罪が有るでしょう。母は父の言葉に欺かれて私を死んだものと思っただけです。実に哀れむべきです。私はこういう中にも深く母上の恵みを感じます。父は私の罪を数えても母上は必ず哀れんで居られましょう。助けることが出来るものなら、どうか助けたてやりたいと、今が今でも私の身から目を離さず、人知れず泣いていて下さることが私の神経には通じます。なんでこの大恩ある母上のことをこの法廷などで申されましょう。」

 末は全く涙である。この声と共に忽ち傍聴席で気絶した婦人がある。これは先ほども気絶して隣人に世話になったあのベールの婦人である。今度は嗅ぎ薬でも治らない。直ぐに警吏がその元に駆けつけた。そうして抱き上げる拍子にかおのベールが外れた。

第二百六十三回 終わり
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