巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百六十五、『断末魔』 (一)

 蛭峰が突んのめるように歩み寄ったその戸口の番人さえも呆気に取られている。彼は戸を開けて好いか開けないのが好いかさえ知らない。けれど蛭峰を遮(さえぎ)る勇気はない。慌てて戸を開いた。蛭峰は出て去った。

 後で裁判所の混雑は並大抵のものではなかった。今まで麻酔したようになっていた傍聴一同、初めは徐々に、次は急に、最後は津波の押し寄せるほどの勢いで、目が醒めた。真に意外な、恐ろしい裁判であった。イヤ裁判にはならずに止んだ。けれど、この様なことは見たことが無い。口々に驚きや疑問や様々なことを語り合い始めた。鼎(かなえ)《三本足の湯沸かし器》の沸く有様である。

 さすがの判事一同及び裁判長までも蛭峰が去ってしばらくの間はただ顔を見合わせて、口が利けない様であった。けれどついには気が付いて裁判長は宣言した。「今日の裁判はこれで延期と致し、次回の開廷期へ譲ります。その間に必ず予審の調べ直しとなり、そうして裁判官の人を替えて更に裁判するに至るでしょう。」我々は最早この様な裁判は取り扱え得ないとの意を含んでいるのだ。裁判長がこれほどまでに言うのは前後にほとんど類が無い。陪席判事も陪審員も無言ではあるけれど、再びこのような恐ろしい裁判に携わることは出来ないということは同感らしい。

 傍聴人が言っていることがらなどは千状万態でここに一々記すことはできないけれど、「被告弁太郎はどうなるだろう。」と言い、「蛭峰の旧悪には驚いた。」と言い、「親が子を論告して、反対に子から旧悪を暴露されるとは全く天のする業である。」などというのが多かった。しかし大抵の人ガ弁太郎はまさか死刑にはならないだろう。情状を酌量して終身刑に処せられるだろうと言った。かなり法律に通じた人も勿論そうさと言っていた。

 それはさて置き、戸を開いて出た蛭峰のさまは見物である。彼は帽子をかぶることさえ知らないのは勿論のこと、自分が足で歩しているか、頭で歩しているのかも、区別が付かない様子である。夢遊病の患者が歩むようにフラフラと歩み、石の廊下に出て走った。ここには入り遅れた傍聴人や他の裁判の室に出入りする人などが蟻集している。この人々は、一人中から出て来るものがある度に取り囲んで中の様子を争い聞くので、直ぐに蛭峰の周囲へ走り寄った。けれど、一目蛭峰の顔を見て飛びのいた。

 実に蛭峰の顔は誰であっても飛び退かない訳にはいかない程物凄い。筋と言う筋にはことごとく血がみなぎって隆起している。血走った眼の光、引きつった頬のゆがみ、怒れる虎より恐ろしい。誰がこの前に立つことが出来るだろう。全く蛭峰は無人の境を行くごとく群衆の中を通り裁判所の出口まで出た。幸いにここに居合わせたのが彼の馬車である。

 彼は誰の馬車とも見分けずにこれに乗った。御者は問うた。「お帰りですか。」蛭峰は返事をしない。返事の無いのは帰るのだろうと御者は気を利かせて家の方へ馬車を向けた。全く蛭峰の身には、今裁判所の中で力の尽きた反動が出て来た。死人のように見えていた彼の顔は火のようになった。震えていた歯の根は歯軋(はぎし)りするように堅く結ばれた。手は手のひらへ爪が立つほどに握り締めた。そうして脳髄も電光のごとく忙しく動き始めた。けれど脳髄が動けば動くほど、益々逃れる道の無いその身の末運が理解できるのだ。この後をどうして好いか思案が浮かばない。彼は考えて又考えた。どうしても思案の無い苦しさに又叫んだ。「考えるだけ無駄だ。本当に神の手で罰せられたもの、何とした所で逃れることが出来るものか。」

 叫びながら狼が檻(おり)の中を見回すように馬車の中を見回したが、膝の脇にある、褥(しとね)の上に一本の扇子の有るのが目に留まった。これは今朝彼の妻が自分で乗って用足しに出る積りで他の品と共に入れたのをツイ取り残して置いたのだ。この小さい一物が大いなる動機である。

 初め彼は、心も無くこれを取り上げたが、手に置いて見直しをするともに、忽ち妻のことを思い出した。彼は不意に痛みを受けたように叫喚した。アア彼は家を出るときその妻に何と言った。家の恥辱を雪(すす)ぐために毒薬をもって自殺せよと命じた。のっぴきのならないように鉄案を宣告した。今は如何であろう。妻にこの様な宣告をする資格があるだろうか。妻が家名を汚さないうちに自分が家名を汚したのだ。妻の家名の汚し方より数倍重い。それも事実を言えば、今の妻を迎える前に汚(けが)していたのだ。今はただそのことが露見したと言うのに過ぎない。

 この様な身をもって妻に家名を汚すなとはどうして言えた。妻を死なせるなら自分が先に死ななければならない。妻には毒で自殺しなければ死刑台に上されるぞとの意を繰り返し繰り返し言って脅して、アア死刑台は自分の方が当然上るべきである。この様な者の妻となったればこそ夫の心中に潜んでいる、極悪が妻の身に感染したのだ。このような者の妻となって、誰だとて悪人とならずに居られるものか。鬼の妻に鬼神《夫が鬼神》と言うのはこれである。

 「アアどうしても妻を死なせてはならない。こうなればもう破れかぶれだ。妻を引き連れ、世界の果てまで出奔(しゅっぽん)《その土地を逃げ出して姿をくらますこと》しよう。」
 悪人の後悔は善人の後悔とは違う。善人は後悔して善人に還り、悪人は悪を残して逃れるのだ。悪を遂げるとはこのことである。彼は全くその気になった。何が何でも妻と共に逃れるほかは無い。とはいえ妻はまだ生きてい入るだろうか。先刻鉄案を宣告して家を出てよりまだ二時間とは経っていない。毒を飲んで死ぬにしても、後に残る子供の手当てや、そのほかにも準備があるだろう。急いで帰ればまだ死なない所に行く見込みはある。こう思うと共に、彼は突然頭を馬車の窓の外に出し御者に命令した。「早く家へ、早く、早く」

 やがて家には着いた。飛ぶように中に入り妻の部屋に馳せつけた。あいにくとに錠がおりている。アア遅かったかと彼は胸を突かれるように感じた。けれど叩いてみると、中で何だか物音がする。有り難や、まだ生きているのかと思い、「開けろ、開けろ、」真に声を限りである。けれど開けない。彼は全身の重さをもって何度も戸に突き当たり、ようやく戸を破ることが出来た。そうして転がるように中に入れば、妻は部屋の隅に立っている。けれども遅すぎた。今までは未練な心で死ぬことが出来ずにいたけれど、夫の戸を叩く荒々しい音を聞き、いよいよ逃れることが出来ない時が来たと知り、戸の破れると同時に最後の毒薬を仰ぎ飲んだ。立っていたのはこれから倒れようとするところだったのである。

 「オオ」と叫んで蛭峰が近づくと同時に飲み干して空になったガラス瓶が力の無い手から落ちた。

第二百六十五回 終わり
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