巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu279

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 9.20

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百七十九、『結末』 (十一)

 死んでも五万フランの金は放さないと、段倉は決心してから一日、二日、三日、四日と経った。どうして彼の強情がここまで続くことが出来たかはほとんど不思議である。
 彼は全く餓鬼の境遇を通り過ぎた。もう自分で自分の身を動かす力も無い。死人のごとく床の上に横たわって時々苦しそうな呻(うめ)きの声を発していたが、果てはその声さえも出なくなった。もう死を離れることただ一歩である。

 しかしこの様な場合に至っても飢えの苦痛は止まない。イヤ体が弱れば弱るだけ益々募(つの)ってくる。募り募ってもうどうにも耐えることが出来なくなった時なのだろう。彼は部屋中を転がって、床の上にもしや前に食べたパンの屑でも落ちてはいないかと捜した。捜してただの一粒でも見当たれば急いで口に入れた。こう生半な口に入れる物が有るとそれに刺激されて飢えの度が又強くなる。

 次に彼、もう何も口に入れる物の無い辛さに、床にある羊の皮を齧(かじ)り始めた。このような極点に至っては人間と禽獣(きんじゅう)との区別は無い。真に犬よりもはなはだしい有様である。よく世の人が石を噛むの、土を食らい付くのと言うが、全くその様な時が来たのだ。

 流石の強情もここに至ってついに挫(くじ)けた。彼はある日の夕方その痩(や)せて疲れた身を戸口の所まで引きずって行き、番人に向かって、「一万フランの金をやるから、どうかお前の食べ残しのパンのカケラでも骨の余りでもくれないだろうか。」と請うた。

 およそどれ程厳重な牢番でも一万フランの賄賂(わいろ)に動かないはずは無いはずなのに、この番人ばかりは動かない。全く段倉の泣き声が耳に入らない振りである。段倉は消え入るような声で、「コレ、コレ、お前だとて人間ではないか。この通り同じ人間が、飢えのためにもう今夜にも死ぬという所まで迫っているのに、知らない顔で見殺しにするとは余りに酷(ひど)い。どうかこちらに向いて私の言葉を耳にだけでも入れてくれ。」これだけ言って気力が尽き、床の上にうつ伏せに倒れた。もう彼の最後であろう。この上に耐えることも生きながらえることも出来ない。それは体が許さないのだ。物質の規則が許さないのだ。

 倒れたけれど、又起き直って最後の声を発した。「頭分を、頭分を、鬼小僧とやらを」
 こちらではこの声を待っていたらしい。直ぐに鬼小僧が現れた。「私をお呼びなさったのは何の御用です。」
 段倉;「助けてください。助けてください。もう身請けする金も無し、ここに五万フラン残っているから、これを差し上げます。どうか命だけは助けて、私をこの山洞の奴隷に使うなりとどうなりと、ハイどうか命だけ。命だけ。」

 到頭五万フランも思い切った。これで見ると段倉にとって、五万フランよりは命の方が流石にわずかばかり重いと見える。
 鬼小僧;「随分辛いと見えますね。」
 段倉;「辛い。死ぬよりよりも辛い。残酷です。無惨です。」
 鬼小僧は少しも心が動かない声で、「けれど世には貴方よりも辛い目に有った人が有ります。飢えてついに死んだ人さえあるでは有りませんか。」

 段倉;「そのようなのは極まれです。それは何かの天罰です。」 鬼小僧;「貴方は天罰だと思いませんか。」
 段倉は振るう力さえない身ながらも、恐ろしそうに振るった。そうして、「天罰ならもう充分み受けました。今日までの苦しみはいかなる天罰にも勝ります。」
 この時鬼小僧の背後に当たり、非常に厳(おごそ)かな声が有って、「ではこの苦しみで充分に後悔しますか。」

 何だか聞き覚えのある様に思われる。段倉はもう視力さえ大方尽きた目をいたずらに見開いてその人を認めようともがきながら、「後悔とは何を」
 その人;「今まで行った悪事の数々を」
 段倉;「ハイ、全く後悔しました。今までの事のためにこの様な天罰が降るのなら私は幾ら後悔しても足りません。」
 誰でもこの様な場合まで押し寄せて、後悔の念無しでいられるものか。
 その人;「いよいよ後悔したのなら許してあげます。」と言いながら進み出て鬼小僧よりも前に立った。

 段倉はその姿を見て、「エ、エ、巌窟島伯爵」と打ち叫んだが、ただ驚いたばかりではない。真に身もすくむほどの恐れを催した。今までの飢えの辛さよりも今の恐れの方がきつい。彼の落ち込んだ目にも血の気の無い唇にも、削られたような両の頬にも、ことごとく恐ろしさが現れた。

 伯爵;「イヤ、私は巌窟島伯爵ではありません。」
 段倉;「では誰です。」
 伯爵;「サア誰でしょう。誰ですなどと問うよりも貴方は自分の記憶を探って思い出しませんか。貴方が生涯のうちで、最も深く損害を加えた人を考えて御覧なさい。貴方のために父をも飢え死にさせ、許婚の妻をも失い、姓名をも財産をも、生涯の快楽をも、総て無くして、そうして貴方が今受けているだけの苦しみを、十四年の間、泥埠の土牢で忍んでいた団友太郎が私です。」

 段倉はこの力の尽きた体の何処にこの様な声が籠もっているかと疑われるほどの鋭い声で、「アア」と長く打ち叫んだまま倒れた。そうして気絶してしまった。
 ああ段倉に対する伯爵の復讐はこれで達した。伯爵はもう、自分の復讐が余り酷(にど)過ぎるのをよろしくないというように思っているから、これ以上を追求しない。

 「アア、三人の仇の中で、次郎は死に、蛭峰は発狂した。死ぬよりも酷いというものだ。この二人に比べれば、段倉の方がまだ幸せだ。」
 言う中に段倉は息を吹き返した。

第二百七十九回終わり
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