巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu280

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 9.21

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百八十、『大団円』 

 段倉は息を吹き返したけれど、起き直る力は無く、僅(わず)かにその頭を上げて伯爵の顔を見た。伯爵はこれに向かって厳(おごそ)かに、
「貴方は折角持ち逃げした五百万フランの金を奪われ、きっと失望のきわみでしょうが、あの金は貴方の物ではなく、慈善協会へ払い渡すべきものでしょう。パリーの貧民幾千幾万人の死活があの金に繋(つな)がっているのです。それを盗んで、自分が不義の富貴を計る資本として、済みますか。」
と叱り付け、更に
 「しかし邪はついには正に勝ちません。あの金は既に私から、パリーの慈善協会へ送り届ける手配をしました。」
 段倉は又驚いてようやく呟(つぶや)いた言葉は、
 「貴方は真に神のようです。」
と言うものだった。伯爵はこの上追及しない。
 「貴方に対する懲らしめは、まだ軽いかもしれませんけれど、これでもう許してあげます。」
と言い、更に傍(そば)に立つ鬼小僧に向かい、
 「腹一杯食事をさせて、その上で放免せよ。彼が残している五万フランの金も、もう取るには及ばない、彼の物として持たせてやれ。」
と言い渡した。

 これは全く大赦にも等しい言葉である。今までの段倉なら歓天喜地(かんてんきち)《天に喜び、地に喜ぶ》とも言うべきほどに、躍(おどり)り上がって喜ぶ所だろうけれど、彼はこの伯爵が、昔の団友太郎と知り、今までのことが総て復讐に出たと知って、あまりの驚きに喪心の有様となり、深くは喜ぶことさえ知らない。ただ天の運命の、僅(わず)かに人間を支配して、善にはついに善を報い、悪にはついに罰を来たす無量の力のあることを、現実に身に感じて空恐ろしく思うだけである。

 命令を残して伯爵の去った後で、鬼小僧はその通りに、段倉に立派な食事を与え、五万フランの金を身に付けさせたまま放免した。この時は夜に入った後である。段倉は山洞の門を彷徨(さまよ)い出て、何時間か歩いたけれど、道も分からず、かつ充分な気力も無い。木の根に身を凭(もた)れさせたまま、夜の明けるまで休んだ。

 やがて日の出る頃となり、喉の乾きを覚えたため、傍らに流れる谷川に行き、俯(うつむ)いて水をすくったが、この時流れに写る我が姿を見て驚いた。顔の全く変わり果てたのは勿論、髪の毛がことごとく白髪になっている。アア彼、山洞に捕らわれること僅かに二十日ばかりであったのに、天の力は早や彼を見る影も無い老人にしてしまった。これを発狂した蛭峰に比べて見ると、どちらの苦しみが重かっただろう。双方ともただ相当と言うほかは無い。
 *      *       *        *        *       *    *
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 この様にしている間に、いよいよ十月の五日が来た。これは伯爵が大尉森江真太郎に約束した、死の日である。大尉は約束の刻限にモント・クリスト島に着く積りで、バスチアの港から舟に乗ったけれど、風波のために遮(さえぎ)られ、ようやくその日も夜に入って八時過ぎる頃島に着き、直ぐに巌窟の中に案内されたが、中の立派な有様にただ驚くだけである。

 けれど、ここを自殺の場所と思い、遅くても今夜の十二時までがその期限と思えば、巌窟の中に、なぜこの様な宮殿のような住まいがあるのだろうなどと、怪しむ暇(いとま)も無い。直ぐに伯爵に向かって、
 「私は華子の後を追い、冥府に入る時の来たのを喜びます。貴方は十月の五日まで待てと仰(おっしゃ)りましたけれど、今日となっては、もう私の心を慰める手段が無いでしょう。イヤ、私は冥府に行って華子に会うのが、この上も無い楽しみです。」

 何と言う絶望の言葉であろう。もし、良くこの絶望を掻き消して、大尉にこの世の幸福を得させたならば、真に広大無辺の功徳というもので、今まで我が身が復讐のために重ねた、数多の罪も亡びるだろうと、伯爵は固く信じて、
 「ハイ、そうまで貴方が思い詰めていては、人間の力では慰めることは出来ませんから、せめてもの心尽くしに、私は貴方の死に際を安楽にして上げましょう。
 ピストルで自殺するのは種々の不快を伴いますから、前から私の秘蔵する一種の霊薬をお飲みなさい。これならば体も傷つかずに快く眠るように息が絶え、天国に行って目が醒めます。」

 毒薬に死するも剣または銃に死するも、あえて選ぶ所はない。
 大尉;「ハイ、仰せに従いましょう。」
と言い、間もなく伯爵が持ち出した美しい器の中から、なにやら芳しい緑色の濃い液を、大匙(おおさじ)に溢れるほどすくって飲んだ。

 果たして霊薬というべきである。大尉は何時とも無しに夢幻の境に入り、やがて天国に目覚めた心地がして、傍(そば)には非常に美しい女一人が来て、我が身を介抱するようにも思われ、良く見ればその顔が段々華子の顔に見えて来る。
 「オオ、華子、天国で待っていてくれたのか。」
と言うと、ただ微笑むだけで返事は無い。

 そのうちに又伯爵の姿も現れ華子と何か話している。その言葉も夢か現(うつつ)か次第に明らかである。
 華子;「このご恩は忘れません。伯爵」
 伯爵;「イヤ、恩などと言う事はありませんが、ただどうか、行く末までも鞆絵姫を、貴方の妹としていたわっておやりくだされば。」
 華子;「妹とも姉とも、互いにもう思い合って居ますけれど、貴方が何時までも姫を保護してお上げなさるのに」
 伯爵;「イヤ、私は何時死ぬる身かも知れず、又何処に立ち去るかも知れませんのでーーー。」

 何だかこの世に最早望む所無くして死を決した人のようにも見える。
 「オヤ、貴方は私一人を残して何時死ぬかも。何でその様な悲しいことを仰(おっしゃ)います。」
と忽(たちま)ち伯爵の背後から叫ぶ者がいる。伯爵は振り向いて鞆絵を認め、
 「オオ、そなたは、そなたは、もし私が無くなればーーー」
 鞆絵は恨めしそうに、
 「その様なことをお問いなさるのは、華子さんに、もし森江大尉が無くなればと、お問いなさるのと同じですことです。」

 一語で何もかも分かっている。伯爵は鞆絵の手を取り、
 「オオ、許してくれ。私が悪かった。私が知らなかった。この世にもう何の用事も、何の楽しみも無いだろうと思ったため、森江大尉が世をはかなんだように、私も世をはかなみ、今まで重ねた罪の報いとしても、私の身を神に捧げなければ成らないと思い、覚悟を決めていたけれど、ただそなたの心を知らなかった。

 まだまだ死ねない。私にも幸福がある。神がその幸福をそなたの愛と言う形をもって私に与えて下さるのだ。オオ、神の恩、神の恩、そうだ生きながらえてそなたを幸福にし、そなたの幸福から、私の幸福を溢れ出させなければならない。」
と言ってしばらく抱擁し合って神に謝し、又相擁して退いた。

 大尉はこれらの有様を夢路に見て、怪しいとも思わない。ただ華子の顔が、なおも我が傍(そば)に輝いているのを喜び、夢なら醒めるな。天国ならば長く長く天国のままにあれとだけ思ったが、翌朝は天国がこの世となった。この世に目は醒めたけれど、華子は依然として傍にいる。どうしてだろう。これを怪しみ、問う心も出ず、ただ伯爵の力に違いないと知るばかりである。

 直ぐに起きて手を引き合い、雲よりも柔らかい絨毯の上をうかうかと歩るいて回るうち、洞門も開いていたと見え、何時しか巌窟の外に出て、水際のやや高い所へ行って見ると、一天晴れ渡って海の面を射る日影もまぶしいほどである。この様なところに、何処からか一人の舟子が来て、
 「この手紙を伯爵がお残しでした。」
と言って、一通を差し出した。
 「エ、伯爵が手紙を」
と大尉は受け取って開き読んだ。

 「大尉よ、華子よ、水際の小舟を見よ。この手紙を預かった、その舟子ジャコボが、何もかも心得ているので、御身二人、乗ってレグホーンに上陸せよ。その所には病気が半ば治って、ほぼ歩行の自由を得た野々内弾正が、孫娘の婚礼を祝そうとして待っているなり。パリーの余の家、モント・クリスト島の巌窟、及びその財宝、通貨一切、およそ一億フランの価格を、御身等二人に譲るなり。大尉よ、一億の資本はこの世において、高く尊い事業を遂げるのに足りるだろう。御身等余に謝するなかれ。ただ余がために神に祈れ。四十余年、安楽の何たるかを知らずして、煩悶した不幸な男子も、御身等の祈りと、鞆絵の愛とによって、安んずる所を知るを得るだろう。
 大尉よ、華子よ、幸福に生を得よ。人生は茫々(ぼうぼう)《広くはるかな様子》たるも、自(おの)ずから神の指差して渡るべき津頭《渡し場》を示し給う時があるだろう。その時まではただ楽しんで、そして待つのが、これが人生最大の良い過し方である。」

 読み終わって大尉はジャコボに問うた。
 「伯爵は今何処にいる。」
 ジャコボは沖合いを指差して、
 「今朝早く、姫様と共に東方に向けて出帆為されました。アレ、あの舟に乗ってお出でです。」
 大尉と華子とは、頭を上げて水天髣髴(すいてんほうふつ)《海面と空の境ががぼんやりとしている》の際を見ると、かもめかと思われるように白帆の影が見えている。最早呼んでも届かない。

 大尉;「もう伯爵に会うことは出来ないだろうか。」
 華子;「伯爵のお言葉の通り、楽しみにして待ちましょう。」
(大尾)《終わり》

第二百八十回終わり
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