巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu32

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 1.16

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

三十二、誰だ、誰だ

 皿のかけらで壁のセメントを崩し、セメントの中の石を二個まで抜き取ったということは、いくらその石が小さいのにもせよ、少し異様に聞こえるが、それは囚人というものが、どれほど牢を破るのに熱心であるかを知らない人が怪しむところである。

 一本の針さえ与えてくれれば、ヨーロッパ全体のどれほど堅い石牢でも、破って見せると言った、牢屋ぶりの名人もいる。又懐中時計のゼンマイを、小さく巻いたままで靴下の中に入れていて、五回も牢を破った名人がいる。皿のかけらで壁の石二つくらいは少しも怪しむに足りないのだ。

 けれど、皿のかけらでは最早間に合わない事になった。二つ目の石をはずして、三つ目になると、今までのより大きくもあり、深くもあり、何か鉄の道具が無ければ、到底動かすことが出来ない。鉄の道具、鉄の道具と、一生懸命探したが、目に届くところでは、寝台の左右の縁に小さい欄干のように鉄の板金が付いている。

 しかしこれはねじで締め付けてあるのだから、ねじを回す道具が無ければ取り外せるわけが無い。今一つは窓の格子である。これも鉄だ。しかも寝台の欄干よりは十倍も大きいのだ。ところがこれもだめだ。

 今まで別に牢を破る気があったわけではないが、悔しさのの余りに、この格子にしがみ付いて、揺さぶって見たことは何度もある。
この格子を外すは壁の石を外すのよりも、幾らか難しいかもしれない。イヤ、実際この格子を外すことが出来るようなら、何も壁を崩す必要は無いのだ。

 そうとすると、差し当たり手に入りそうなのは、毎日牢番が持ってくる鍋より外にない。鍋は勿論鉄だ。その中に肉汁を入れて持って来て、皿に移して立ち去るのだ。どうかその鍋をそのままここに置いて行かせるようにしなければならない。

 鍋に差し込んである取っ手は、長さが一尺《30cm》近くもあって、これも鉄製だからこの取っ手をしばしば借用することが出来れば、てこの変わりにすることも出来る。大抵の石ならば、これを間に入れて、こじ動かせば、抜けないということは無いだろう。

 ただの一夜でも、或いは一時間でも良いから、この鍋を置かせたい。置かせるには、又皿を壊すのが近道ではあるが、そうしばしば壊しては疑われる恐れも有るから、今度は日の暮れに、牢番が来た時に、躓(つまず)かなければならないような所に、その皿を出して置いた。

 計略が図に当たって、その晩、鍋を提げて格子の中に入って来た牢番は果たして自分で躓(つまず)いて皿を蹴飛ばし、再び使えないように砕いてしまった。彼は非常に怒ったけれど、自分の不注意だから仕方が無い。

 再び新しい皿を取りに帰ろうとするのを、友太郎は呼び止めて、「なあに、わざわざ皿を取って来てくださらなくても、私は鍋から直接頂きますよ。」牢番は土牢の入り口を降りたり、上ったりする面倒が助かるのを喜んで、「そうだ、鍋のまま置いて行こう。」と言い、少しも疑わずに立ち去った。

 この夜、友太郎はこの鍋の取っ手を抜いて、仕事をはかどらせたことは、今までの二日分にも勝った。かなり大きな石を、夜の明けるまでに又一つ抜き取った。

 夜の明けると共に、石を元のとおり差込、鍋の取っ手も元の通りに鍋につけ、、そうして寝台で壁の穴を隠し、その上に寝ていると、間もなく牢番が新しい鍋に肉汁を盛って来て、「お前のような乱暴な男に皿はあてがっては置けない。一週間のうちに二枚も砕くのだから、もし外の囚人にこのまねをされたら、政府の財政が破綻(はたん)してしまうことになる。」

 まさか、政府の財政が囚人の破損する皿のために影響を受けはしないが、牢番の懐には確かに影響するのだ。皿小鉢のような物は総て牢番の負担なのだ。
 「この古い方の鍋を皿の変わりにここに置いて置くことにするから、サア、肉汁をもこの鍋に入れて置くよ。」

 全く友太郎は神が自分の仕事を助けてくれているように思った。鍋を、ここに置ききりに置いてくれるとは何という幸せだろう。これで、もし、この穴を、壁の尽きるところまで掘り抜くことが出来ないなら、それは誰のせいでもない。自分の熱心さが足りないのだ。

 この様に思って、牢番の来る少し前にはその取っ手を鍋に戻して置き、牢番が立ち去れば直ぐに取っ手を外して、仕事にかかる。ほとんど夜昼の区別は無い。数日の内にほとんど、自分の体が入ってしまうほどの、穴になり、掘り出したセメントは窓から風で飛ばしたり、どぶの中に捨てたりして、ますます都合よく進んだが、こうなると、こっちの仕事も向こうに聞こえるようになったのか、向こうは又止めてしまった。

 何でも、こっちを疑って又控えたためであろう。向こうが控えればなお更こちらが早く進んで行かなければならない。どの様な人だか知らないが、早く穴と穴とに出くわして、その人の顔を見たい。たとえ、牢破り目的は達し得なくても、二人言葉を交えることが出来るようになれば、ただそれだけでも、どれほどの幸せか知れず、又二人の間にどの様な知恵が出るかも分からない。

 掘っては又堀、間断なく進んだ結果、今度こそは鍋の取っ手に、イヤ、人間の力の到底及ばない邪魔が出来た。それは壁の中に鉄板が入っていることを見出したのだ。

 鍋の取ってが、上面を滑るばかりで、少しも瑕(きず)を付けることが出来ない。初めは又石だと思ったが良く見ると石ではない。平たく板のように続いた鉄である。知らなかった。知らなかった。これほどまでの用心がしてあるとは。これで、全く何もかも水の泡だ。

 どの様な道具が有っても、こればかりは通り越すことは出来ない。恨めしさの余りに押しても見た。叩(たた)いても見た。そうして、最後には声を出して泣いた。「アア、神よ、神、今まで空しい望みを起こさせ、遂に成功するものとばかり思わせておいて、この障害に会わせるとは、余りに非道です。残酷というものです。」

 彼は再び絶食してこの世を去る外は無いと、早や前の悲しい決心に返り掛けた。けれど、その実、この鉄板は、それほど広いものではない。所々横に入っているのだから、その上か、下かを掘れば良いのだ。そうと気が付かないのが不覚だ。

 ほとんど泣き入った友太郎の耳に、何処からか、たちまち人の声のような響きが聞こえた。アア、確かに鉄板を隔てた向こうからの声だ。「誰だ、誰だ、そこで神の御名を呼んで、そうして、絶望して泣いているのは。」確かにこの身への問いである。

 一事は恐ろしさに震え上った。実に穴の中で、鉄の分子に響きを伝えて聞こえる声は人間の声とは思えない。物凄い音である。けれど、恐れは少しの間で、たちまち、燃えるほどの熱心となり、耳を鉄板に当てるようににして聞いたけれど、再びは聞こえない。

 何しろ向こうから穴を掘っていた相手に違いない。友太郎は神の次に、この人を頼りにしている。この人が有ればこそ自分も自殺を思いとどまり、ここまで穴を掘って来たのだ。

 「そう言う貴方はどなたですか。もう一度どうか声を聞かせてください。」請いに応じて声は再び聞こえた。
 「お前は誰だ。」
 友;「不幸な囚人です。」
 彼の声;「何の国の」
 友;「フランスの」
 声;「シテ、姓名は」
 友;「団友太郎」

 声は独り言のように「フム、土牢にでもいるから名高い国事犯者ででもあるかと思えば、全く聞いたことが無い。相手にもならない俗人かも知れんな。」

 友;「俗人ではない水夫です。水夫です。」ほとんど辺りも構わずに大声で叫んだ。

第三十二回終わり
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