巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu60

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

六十、奇癖の人

 有り難がる水夫に別れ、後も見ずに友太郎は立ち去ったが、目指して行く所は、昔我が父が住んでいたアリー街である。
 行く道に小高い丘がある。丘の上から父の住んでいた家の屋根が見える。友太郎はその屋根を見下ろして、実に今昔の思いにふけった。

 土地の有様は少しも昔と変わらない変わらないのに、訪ねる人は早やこの世に居ないのだ。昔ならば、あの家の中、あの屋根の下に、両手を広げてわが身を迎えてくれる人が有ったのに、今は無いのだ。ああ、なぜもっと早く、父が健康で居る間に帰って来ることが出来なかったのだろう。何故父は私が帰る今日の日まで生きていてくれなかったのだろう。思えば恨めしい事である。

 心弱くてはいけないと前から腸(はらわた)を鉄石のように鍛えた積りの男では有るが、しばらくは我知らず涙に暮れたが、やがて思い直して、丘を下り、良く覚えている道を通って我が家とは言えない家の前に立った。家は貧しい人たちに、中を区切って貸す為に建てた大きな構えで、五階建てに成っていて、その入り口に管理人が控えているのは、他のこのような建物と多く違いはない。そしてその管理人の顔も昔の人では無い。

 これに向かって先ず「貸間があるか」と聞き、「無い」と断られた。更に「それでは五階にある二号室を見せて貰いたい」と頼んだ。それが我が父我が身が住んだ部屋である。「イヤ、五階の二号は人が住んでいますから」とこれも断られた。「イヤ、人が住んでいる事は知っているが、是非とも見たい事があるので、どうかその人の許しを得て、見ることが出来るようにとり計らって欲しい。」と、何よりも力が有る例の金貨を握らせて無理に頼んだ。

 金貨は今の世の麻薬である。欲の深い管理人もこれには敵する事は出来ない。直ぐに受け収めて、「承知してくれるかくれないか、兎に角頼んでみましょう。」と言って、五階に上って行ったが、やがて帰って来て、「承知してくれました。サア、お上がりなさい。」と早や自分で案内するように身構えた。

 「イヤ、案内には及ばない。」と言って一人長いその階段を上って、二号の入り口に行ってみると、中に住んでいるのは、初めて所帯を持ったと思える若い夫婦である。ああ、この楽しそうな境遇は自分にもあるはずだったのに、無くなってついには二度と来ない事になったのだ。この身はこのような境遇に立つはずだったところを、土牢の底で送ったのだ。見るもの何一つとして、思い出の種に成らない物はない。

 やがて若夫婦の、親切に許してくれるままに、中に入り、広くも無い部屋中を見回したが、壁だけその後塗り替えたあとがあるだけで、外は昔と変わっていない。けれど、父の形見とも見るべき物は、部屋に作り付けのベッド以外は何も無い。更に窓のところを見ると、三鉢ほど盆栽が有って草花が咲いている。この鉢こそは我が父が、絶えず四季折々の花を植え、私の留守の間は、これだけが楽しみだと言っていたのと同じ鉢だ。何だか父の魂がまだその辺に残っていそうな気もする。

 若夫婦は友太郎の目に涙の露が宿るのを見て、きっと事情があって、昔の由緒を尋ねているのだろうと見て取ったらしい。間もなく静かに部屋の外に出た。後に友太郎は何もかも打ち忘れて鉢の前に膝を折り、拝むように垂れた首(こうべ)を、しばらくの間上げる事ができなかった。

 ようやく気が付いて起き直り、去るのに忍びない気持ちを鞭打(むちう)ち、涙を拭(ぬぐ)って部屋の外に出て見ると、あの若夫婦は廊下の尽きる窓から首(こうべ)を並べて外に出し、遠い景色を眺めていて、ドアの音でこっちを向いた。友太郎は無言のまま、恭(うやうや)しく礼をして、感謝の気持ちを表し、そのまま四階に下ったが、又その廊下の一方に白髪頭の老婆が何かをしているのを見た。

 もしやこの人なら知っているかと思い、「もし、この四階に仕立て屋職人毛太郎次と言う人が居たのを知りませんか。」と尋ねた。老婆は嘲(あざけ)るように笑って、「それは一昔以前のことです。今ではポントガーの街道で尾長屋という宿屋を開いているのです。」と言い捨てて、自分の部屋に入った。

 これから友太郎は再び管理人の所に行って、この家の持ち主の名前を聞いて立ち去ったが、次にはその持ち主のところに行き、柳田卿という名をもってこの家全部を二万五千フランで買い取った。真の値段より一万フランも高いけれど、ただ父の居た五階の部屋を、ただ父が居た頃のままで保存して置きたいので、値段の高下は問うところでない。

 数日の中にあの五階の若夫婦はこの家を管理している公証人から、奇妙な通知を受けた。それはその家中の何階でも、又どの部屋でも好きなところを選んで引き移るように、家賃は五階の部屋に居て払って居た分だけで良い。引越料は五百フラン与えると言うのであった。

 このような有り難い通知は又とないので、聞く人皆羨(うらや)みもし、怪しみもして、様々に噂したが、誰も本当の理由を推量する事が出きる者は居なかった。ついには新持ち主が奇癖の人だろうということにしてしまった。

 この又次に、この辺の人が驚いたのは、ほど遠からぬスペイン村のある漁師の家に、土地では見慣れない一紳士が来て、十五、六年前に死んだのか逃亡したのか兎も角消えてしまった女の事を問い、翌日その家に、礼だと言って新しい漁船一艘と新しい地引網一具を添えて贈ったということだ。

 これも噂の末が、紳士の奇癖だろうということで終わったが、その紳士が何処に居るのか誰も知る人がなく、ただわずかに馬に乗って、ポントガーの街道を目指して行くのを見たと言うことを、誰言うとなく言い伝えたのみである。ポンドガーの街道とは毛太郎次の開いている宿屋尾長屋のある所なのだ。

第六十回終わり
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