巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu73

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 2.26

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

七十三、一艘の帆前船

 全く六十年間、信用を疑われた事のない森江商会である。たとえ今はどれほどの末路に直面していると言っても、その頭取である者が同業銀行の秘密書記と名乗る男に弱みを見せてなるものか。森江氏がきっぱり言い切ったのは当然である。辛くはあろうが当然だ。

 イヤ言い切りは言い切ったが、実はあんまり立派ではなかった。物心ついて数十年来、嘘一つついたことの無い森江氏である。嘘一つ付かなければならない場合に至ったのはこの頃が初めてである。現在自分の心で、今月来月の中に到底五十万に近い支払いが出来ないのを知っていて、それを出来る様に言い切ったのだもの、どうして立派な声、立派な言葉、立派な語調を出すことが出来るだろう。言い切ったその言葉が何と哀れにそうに聞こえたことだろう。
 けれど、書記の顔には、別に哀れそうな色が浮んだとも思われない。彼はただ打ち明けたような、そうして詰問するような、異様な調子で、

 「イヤ、森江さん、そう仰るのは当然です。誰であっても、貴方の地位に立てばその通りに言い切るでしょう。けれど、私に対しては、見得(みえ)、外聞を言っている場合ではないでしょう。ここで伺うことはこの席限りで、外には決して漏れませんから、どうか貴方の名誉に誓った真実の言葉を聞かせてください。全く貴方は紳士の言葉として、この支払いが無事に出来ると言いますか。」

 こうまで問い詰められては、それでもと言う勇気は無い。
 森江氏は落胆して打ちしおれた。そしてしばらく考えた末、到底このような大債権者に対しては隠し通すことは出来ないと悟った様子で、

 「イヤ、そう言われれば私も隠し事などの無いところを申さなければ成りません。実に面目ない次第ですが、目下私の運命はただ、持ち船巴丸の安否一つに掛かっているのです。この船が無事に入港しますれば、当商店の信用も多少は回復し、何とか支払いだけは滞りなく出来るでしょう。イヤ出来なくても出来るようにしなければならないと決心しているのです。」

 書記;「もしその船が入港しなかったら。」
 森江氏;「この良造の運の尽きです。支払いを停止する外は有りません。」
 書記はため息の様なものを漏らした。けれども柔らかな顔を示す時ではない。更に真面目に、
 「そうすると、巴丸が貴方の最後の頼みですね。」

 森江氏;「最後の頼みです。」
 書記;「何とか助力を頼める友人は有りませんか。」
 森江氏;「商人には取引先はありますが、友人は有りません。信用の尽きた後で誰が助けてくれるでしょう。」
 書記;「そうすると、この最後の頼みが無くなる時は」
 森江氏;「全くこの商会の破産です。森江一家の滅亡です。」

 書記は思い出したように、「オオ、私がここに来る時、丁度、港に一艘の帆前船が着きましたが、もしや貴方の言う巴丸ではありませんか。」
 森江氏;「ハイ、それは巴丸が出て、次の又次にインドを出たジロンと言う船です。実は店の若い者が一人、時々屋根の物見台に上がり、入港の船を見てから私に知らせてくるので、その船の入港も直ぐ分かりました。」

 書記;「巴丸の次の次に出た船が着いたのですか。それなのに。」
 森江氏;「ハイ、こうなればもう何もかも打ち明けます。それなのにまだ巴丸が着きません。」
 書記;「ことによると今のジロン号とやらで巴丸の消息が分かるでしょう。」
 
 森江氏は我慢が出来ない様子でたちまち顔に両手を当てた。
 「イヤ、いっそ便りが分からない方が好いのです。巴丸がインドを出たのは本年二月の五日です。もう一ケ月前に入港しているはずなのに、いまだに入港しません。これは決して無事な船にある事ではないのです。どうか私はその便りを聞きたくないと思います。聞かないうちは、今にも帰るか、今にも帰るかとの期待が何時までも続いていますが、聞けばそれ切り絶望です。」

 何と言う心細い実情だろう。聞かないうちはまだ希望が続いているとは。しかし氏の今の位置としては真にこのようなものだろう。
氏は両手の陰で泣いているらしい。書記も再びため息をつこうとしたが、この時階段の方から異様な足音が聞こえて来た。森江氏はこれが自分の恐れていた便りとでも感じたのか、突然立上がって、

 「アノ物音は何だろう。何だろう」と言って戸の所まで進んだが、勇気が尽きたと見え、又よろめいて元の椅子に倒れた。そのうちに足音は近づいた。確かに六、七人も来るらしい響きである。けれど、割合にその進みは遅い。何だかためらいながら来るのかと思われる。やがて外からこの部屋の戸の錠を、鍵で開こうとする音も聞こえた。

 森江氏;「ハテな、この戸の鍵は嬢と小暮の外には持っては居ないが。」
 言う声の下に、又一方の戸の方を同じように開いた者が有る。そもそもこの部屋には店の方と、奥の方とに両方に戸が有るのだ。先に開いたのが奥の方で、次に店の方からの戸が開いた。そして奥の方から入って来たのは先ほどの緑嬢である。嬢の目には涙が一ぱい湛(たた)えられていて、

 「お父様、お父様」森江氏はこの叫び声で何もかも悟った。いよいよ先ほど入港したジロン号というのが森江氏の運の尽きという悲しい便りを持って来たのだ。
 森江氏;「オオ、いよいよ巴丸が沈没したのか。」店の方から続いて入った小暮もただならない声で、

 「どうか旦那様、気を確かにお持ちください。」
 これこそ森江一家が没落と事が極まった時である。部屋の中にただ何と無く悲しい空気が満ち満ちた様な気がする。

第七十三終わり
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