巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

七十七、神さえ見捨てた

 何か奇妙な計画を企てているのでなければ、この書記のすることは全く理解が出来ない。彼は富村銀行の書記だと言っているのになぜ「船乗り新八(シンドバット)」と言う名で他日緑嬢に手紙を寄こすなどと言うのだろう。或いは彼の外に「船乗り新八」と言う昔の物語の本に名高い人と同じ名の男がいるのだろうか。嬢も後で何度と無く怪しんで考えた。けれどこれ等の事は分かる時が来るまでは、考えても分かりはしない。

 それに彼が、帰りがけに巴丸の水夫長奈良垣を、酒を飲ませると言って連れ去ったのも奇妙である。銀行の書記などがしそうな事ではない。果たして彼は奈良垣を何処に連れて行ってしまったのだろう。これ切りで奈良垣の姿がそのマルセイユに見えなくなった。少なくても森江家の人々目には触れなくなった。イヤ奈良垣だけでなく彼の下に居た六人の水夫も、全く消えたようである。

 何処にいるとも、新たに何んと言う船主に雇われたとも分からない。もっとも或る人の噂では奈良垣が非常に裕福そうに新しい水夫の服を着て港の辺を忙しそうに歩いているのを見たと言うことは聞こえた。しかし、果たして事実か否かは突き止めることは出来ない。イヤ今の森江家にとっては突き止める必要も無い。

 もう一つ怪しいのは病気の為にパルマへ上陸して療養してるということだった郷間船長というのが、同じく何の便りも無い。この人は船長で有りながらその船を沈めたので、たとえ、自分の過失で沈めたのでは無いにしても、義務として森江家に一度来なければならない。又月給の受け取り分もあるのだから、権利としても、来なければならない。奈良垣の言葉では、この三日の中にも帰って来る様なことを言っていたのに、何しろ理解に苦しむところだ。

 しかし、これ等はさて置いて、書記が去った後で、森江家では少し息が付けるような状態だった。何しろ五十万円という大口が三月も延長になったのだから、そのお陰で、他の小口の払いは滞りなく済ませて行くことが出来る。世人が多分、巴丸の沈没が分かると同時に破産するだろうと思った商店が依然として、毎朝無事に戸を開けるのだ。さては、十五日に破産するかもしれない。イヤ、三十日にはきっと破産するだろうと、段々噂の方も延びて行くが翌月、翌々月になってもまだ不思議に支えている。

 もっとも、この間に森江氏が努力奮闘した事は大変なものだ。全くあの書記に約束した通り死に物狂になって、現金の回収などに努めた。もっとも回収と言ったところでもう回収するだけの貸し金は無いけれど、これでも旧家であるから、古い分や何かが、残っていないようで残っている。それに三月の間だから、そのうち期限が来るような分が多少あるのだ。もし森江商会に少しでも命の続く道があるなら森江氏のこの努力奮闘で続かなければならない。全く氏は夜の目も寝ないほどに奔走しているのだ。

 けれど、いかんせん全体の上で勘定が足りない事になっている。一人富村銀行の書記だけは、今取立てを急いでその為に破産させ、取れるものを取れないようにしてはつまらないからと言う事で、三月の延期を聞いてくれたけれど、他の債主は決してそうではない。

 何でも破産しないうちに取り立てなければならないと、全くあべこべの考えを持っていて、日頃から延期すべきものまで延期しない。無遠慮に取り立てに来る。このような訳だから、森江氏がじっくりと計算してみると、富村銀行への支払の期限である十月十五日までに、どうしても一万五千円しか積み立てる事ができない。一万五千円で五十万円の払いを、イヤこれは言うまでもない、到底計算にも何にもならない。

 ただこの人の最後の見込みは、最早この土地では到底借金のの道が無いのだから、パリーに上京して、掛け合って見ようかと言う事になった。自分の土地でさえ出来ない金が他郷で出来るはずはないけれど、今の場合は、出来ないからと言って、試みない訳には行かない。

 それにパリーには、自分が親切に世話をした段倉が、四百万円(現在の144億円)からの財産を作って、有名な銀行になっている。今の彼ならば千万円の融資でも出来るのだ。してくれる気にさえなれば、自分の金には一文も手を付けずにすることも出来るのだ。

 彼の身が立つまでには随分尽くせない事まで尽くしてやったのだから、事情を打ち明けたなら、或いは意外に又親切な話をしてくれるかもしれない。このような空頼みでパリーに出張したのが九月の末方である。今まで人に者一つ頼んだことの無い身をもって、元の雇い人に頭を下げるのは実に辛い。ただ背に腹は代えられないためである。

 家では妻も娘の緑嬢もほとんどその辺を察して明け暮れに神にのみ祈っていた。けれど、神さえも見捨てたと言うものだろう。いよいよ四日の後が、支払い日という十月の一日に、森江氏はしょんぼりとしてパリーから帰って来た。

 全く段倉が義理も恩も無く旧主人の頼みを拒絶したのだ。もうこの上は手段も何も無いのである。ああ、十月五日は果たしてこの森江一家にはどの様な日となるだろう。一家の人々は、ただ思ってさえ身を切られるような心地がする。

第七十七終わり
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