巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

八十一、不思議

 もし十一時の時報の鐘がなる前に、あの富村銀行の書記が来る事が有れば、その書記が来たと同時に自殺しなければならない。これが森江氏の決心である。それで、氏は真太郎が降りて行くと同時に、会計小暮を呼んだ。これは何時でもあの書記が来たら直ぐ知らせよと言い付けるためである。

 小暮は来た。彼は三日前に、この家がいよいよ破産と言い渡されて以来、可愛そうに夜の目も寝ずに心配しているのだ。幾ら心配しても追いつく事ではないけれど、天性の正直な心が一瞬も落ち着くことが出来ない。たった三日の間であるけれど、、ほとんど二十年も年取ったかと見え、ただ単にその顔が変わっただけでなく、踏む足までも、杖にすがる必要があるように見える。

 彼は森江氏の指図を聞いて、「心得ました。あの書記が店の入り口を跨(また)いだら、直ぐにその瞬間にお知らせします。」と請合って退いた。けれど、彼は下には降りない。直ぐに次ぎの間に控え、ここから店の方を覗いている。その心は何となく主人の様子が心配なので、なるべくその傍近くに居たいのだろう。全く彼は忠僕の標本とでも言うべきだ。

 彼が次の室に退くと共に、森江氏は部屋に掛かっている時計を見た。十一時七分前である。幾ら永くても自分の命はもう、七分間しかないのだ。死ぬと決まった時には自然と時の経つのも早い様に感じる。何だか時計の長針が動くのが目に見えるようだ。
 先ずピストルを取って検査した。何処にも一点の異常も無い。この時もう五分しかない事になっている。覚悟の上にも覚悟をした身であるが、まだ気に掛かるところがある。それは妻と娘とである。

 忙しく筆を取って三行ばかりの短い告別状を二通書いた。一通は妻へ、一通は娘へである。それでも未だ二分ほどある。更にまた一通、これは息子真太郎へ宛、「委細の遺言は寝室の箪笥の中にあり。」とただ一行を書いた。これでただ一分間の命となった。

 一分間でヤッと死ねるのだ。ピストルを取り上げた。そうしてその筒先を口にくわえた。これだけ口から射込んで、上の方へ脳髄を打ち貫くのだ。これが一番未練のない仕方である。もう狙いの狂う恐れは無いから、引き金を引き上げた。これが全くこの世の別れ、もし目を開けたらどの様な未練が出るかも知れないと、目は依然として閉じたままである。

 ああ、このような押し迫った瞬間がまたとあろうか。時計の針はついにほとんど十一時の所に行った。そうしていよいよ打ち始めた瞬間である。下から忙しく上がって来る足音が聞こえた。アアあの書記が来たのを知らせる為の足音である。この足音がこの部屋に入るより先に、我が命は尽きるのだと、全く森江氏は引き金を引こうとしたが、この時早し、あの時遅しとはこの事であろう。たちまち「お父さん、助かりました。」と叫んで森江氏の手にしがみついた者が居る。

 誰と問うまでも無く、その声でも分かっている。即ち娘の緑嬢なのだ。嬢は息せき切っている。声も耳を劈(つんざ)く様に甲走らせて、「まあ、お父さん、これを御覧なさい。助かりました。この一家が助かりました。」
 ピストルは早や娘の手にある。その引き金も嬢の手で静かに、無事に下ろされた。そうして嬢は父の前のテーブルの上に、ほとんど投げ付けるように、或る一物を置いた。

 森江氏は自分が既にあの世に入ったのか、まだこの世に居るのか疑う様子で、非常に静かに目を開き、娘が投げ出した一物をジッと見た。一物とは赤い皮の古い財布で何だか見覚えもあるようだ。財布の右と左の端に紙の束を結んでいる。右の方を調べると、これほど意外な、これほど不思議な事があろうか。先の日富村銀行の書記が持って来た何枚かの手形、債券、その額は合わせて凡そ五十万円、ことごとく受け取り済みと書いて、書式通りに棒を引いてある。そうして、左の方は札のような紙切れに「緑嬢の婚資」と書き、昼もまばゆいようなダイヤモンドが添えてある。その大きさは胡桃の実ほどもある。金額にすれば数十万円(現在の十数億円)というのだろう。

 「これは一体如何したのだ。」と森江氏は驚き叫んだ。
 緑嬢;「アリー街十五番館の五階の二号室に有りました。」町の名も、家の番地も、そうして部屋の番号も、森江氏の耳に初めてではない。「何んと言った。アリー街の十五番館」
 緑嬢;「ハイ五階の狭い部屋の中の暖炉の棚の上に」

 森江氏は、たちまち思い出した。昔その部屋には誰が住んでいたか。この財布はその暖炉の棚の上に、その頃どういう訳で誰が置いたか。その財布がその部屋から、しかも私に対する、五十万円の受け取りと、娘に対する大いなる結婚資金とを持って現れて来るとは。これが夢で無ければ、奇跡である。

 もしも嬉しさのために人が死ぬものならば、この時、森江氏は急死するところだろう。全く魂を抜き取られた人のように、開いて塞がらない口の中で、「不思議だ。不思議だ。」と呟くばかりだった。

 しかし、不思議はこれに留まらない。これよりも更に大いなる、ほとんど、驚天動地とも言うべき不思議が、別にこの一家に押し寄せて居た。

第八十一終わり
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