巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 3.15

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

九十、猿の様に身軽く伝うて

 この宿の広い二階を一人で借り切るとは、何処の贅沢家だろう。と、安雄は非常に気になった。けれど、知らない他人のことをあえて聞くのはなんだか羨(うらや)ましさの為のようで、こっちの品格にも触るからわざと聞くのを遠慮してしまった。しかし何、お祭りを見るのは二階の窓から顔を出すとは限らない。それよりは馬車を借り、市中を練り回って、自分が祭礼中の人となり、他所の二階から見下ろすのがかえって面白いのだから、馬車さえ借りれば、居間の広い狭いはどうでもよいこと。このように武之助と相談をし直して、更に宿の主人を呼び、祭礼の間中、馬車を借りておくように命じた。

 ところがこれも失望である。「どうしても祭礼中、馬車を借りるには、二週間前に申し込んで置かなければなりません。今はもう差し迫った時期ですので、ローマ中の馬車は全て約束済みとなり、ただの一輌でも借りられる見込みは有りません。」と言うのが主人の言葉であった。

 残念ではあるが仕方が無い。それにしても兎に角市中の馬車屋を全て問い合わせてくれ。費用は幾らでも構わないからと、無理に主人に言い付けて、非常に不愉快にその日を過ごした。夜になって後、館主は再び来て、「祭日までなら幾らでも有りますが、当日はどうしても借りられません。破損して平日は使われないような馬車まで、残らず借主が付いています。」と断った。

 安雄の方は前からこの市の様子を知っているから、無理も無いと諦めたが、武之助の方は、特にわがままし放題に育った身だけに、不平のやり場がない。急に立ち上がって、「安雄君、このような主人を相手にしていても仕方が無い。今夜は幸い月も出ているし、円形劇場《コロシアム》の古跡でも見て来ようでは無いか。」と言い早や部屋を出そうにした。」

 コロシアムとは、世界中の歴史に存する最も有名な古跡の一つであろう、昔その建物の中で、どの様な大奇観が興行されたかは、ここに述べる必要は無い。兎も角、ローマに遊ぶ人として、この円形劇場の古跡を見ない人は無く、見れば、その写真を土産として、持ち帰らない人はいない。読者の多くは、たとえ親しくこの古跡を見ないにしても、写真では必ず見たであろう。今は建物も大部分は雨風にくずれて、見る影は無いけれど、その規模の大なる様子で、昔はどれ程壮麗であったか察せられる。

 それはさて置き、武之助が立ったのに続き、安雄も立ち「行こう、しかし君、市中を通って行くか、町の郊外を通って行くか。」 武之助;「市中は見飽きているから、外から行こう。外には色々の古跡もあると言うではないか。」
 安雄;「好かろう。」と言って、相談が決まったのを見て、主は驚いて引き止め、

 「この夜中に郊外に出ては大変です。今では誰一人、夜になって町の外の道を通る人は有りません。」
 武之助;「何で。」
 館主;「何でと言って貴方は鬼小僧の出没する事をまだお聞きになりませんか。」
 安雄の方は鬼小僧の名に、成る程、主が止めるのに納得が行った。武之助は怪しんで、「鬼小僧とは難だ。」

 安雄;「君、大胆な追剥(おいはぎ)だよ。山賊だよ。」
 武之助;「大胆と言ってどの様なことをする。」
 主;「旅人を捕らえて山の洞に連れて行き、今から何時間の内に、幾ら幾らの身代金を届けろと命令するのです。その金が出来なければ、時間を待って直ぐに、射殺します。その手にかかった人は何人あるか分かりません。」

 武之助;「警察でそれを許して置くのか。まるで無政府状態ではないか。」
 安雄;「君はこの国の無政府状態を今知ったのか。」
 主は少し自分の国を弁護するように、「イヤ、警察の方でも、放って置くと言う訳ではないが、何分にも先が巧みで、手に負えないのです。一昨年も、厳しく鬼小僧を調べ、ほとんど捕らえるばかりまで追い詰めましたが、得体の知れない「船乗り新八」とか言う者が、救って船に乗せ、警察の届かない所に連れて行き、一年経ってこの国に帰したそうです。その頃からこの国で最も名高いのは船乗り新八と鬼小僧です。」

 船乗り新八と言う名は安雄の耳に、刻印のように残っている。問わずには我慢することはできない。「船乗り新八とは何者だ。海賊かい。」
 主;「何者ですか。私も見たことは有りませんが、人を助けるのが道楽だとか噂されています。海賊などでは勿論無く、何でも東方のどこかの王様が、姿を変えているのだろうと言う人も有ります。けれど、全くその素性を知る人はいないのです。」

 武之助の方は、話をまともには聞かない。ただ主人が徒に人を脅すのだろうと思い、「毛脛君、主の親切は親切として、夜が更けないうちに、サア、行こうではないか。」と言い、館主を無視して安雄を引き立てここを出た。そうして市中の馬車を捕らえ、わざと郊外から円形劇場にへ行けと命じたけれど、館主の恐れが無根ではないと見え、どの業者も皆恐れ慄(おのの)いて逃げてしまう。仕方なく、市中を通る事にして馬車には乗ったが、武之助は見かけによらず大胆なところがある性格と見え、山賊の出るところを通らなかったのを真実残念に思った様子であった。

 いよいよ円形劇場に着くと馬車の御者は案内者と変じ、先に立って様々なことを説明しながら、二人を導いたが、安雄の方は既に七、八回もここに来たことがあって、案内の文句は聞き飽きている。武之助を案内者に任せておいて一人一方の、崩れた階段の下に行き、柱の根元に腰を下ろし、休んでいた。

 そのうちに近辺の寺院から夜の十時を報じる鐘の音が聞こえたが、それとほとんど同時に何処からか、高貴な巻きタバコの燻る匂いが伝わって来た。さては誰かこの辺に他の見物が居ると見える。タバコの匂いは最上等で、先の夜、モント・クリスト島の巌窟の中で馳走になったのにも匹敵するように思われる。どの様な人だろうと、怪しむと共に、フト自分の身を認められずにその人のすることを見て居ようとの気が起こり、崩れた階段の下に潜り込むように身を寄せると、間もなく煙草の主が二間(3.6m)ばかり先の方へ立ち現れた。

 丁度壁の陰になって、その顔は見えないが姿は一廉(ひとかど)の紳士らしい。そうして様子は誰かを待つ風である。美人と忍び会う約束でもあるのかと、詰まらない想像が浮ぶところへ、高い壁の窓を猿のように身軽に伝ってこの紳士の足元に降り立ったものが居る。美人では無い。これも男である。この男余り高くない声で、「伯爵、お待たせ申しまして済みません。」

 伯爵と言われた人;「オオ、鬼小僧か。ナニ俺も今ここに着たばかりだ。」
 安雄は動悸が高く打った。窓から来たのが鬼小僧なのだ。けれど、之よりも驚いたのは紳士の声である。確かにモント・クリスト島のあの巌窟の主人の声と聞き取れた。

第九十終わり
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