巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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白髪鬼

マリー・コレリ 著   黒岩涙香 翻案   トシ  口語訳

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2009.12.5

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白髪鬼

    

             (四)

 読者よ、私は確実に伝染病に感染してしまった。今となっては何を言っても始まらない。死ぬのも運、生きるのも運、嘆き悲しんでも無駄だが、私の死に際のただ一つの願いは、妻ナイナと娘星子にこの病気を感染させたくないと言うことだ。私が感染したということを聞いただけで妻はどれほど悲しむことか計り知れない。悲しさに我を忘れて走ってきて私に抱きつき、死ぬなら一緒と命がけで看病する事にでもなると、私の病気は必ず妻の病気となってしまう。

 ああ、添い遂げてから四年にしてはや未亡人のはかない生涯を送らせることさえ可哀想なのに、まして、私と一緒にこの世を去らせてハピョの面目が立つだろうか。妻が来て介抱する親切心があるなら、私もそのまま親切を受けずに一人死ぬ勇気を持たなくてはいけない。どうか、妻には私が死ぬまではこの感染を知らせずに済ませたい。これが私のただ一つの願いなので、私は無理に何気ない様子をして、かの牧師に向かい、早く果物を売る子供の所に行ってくださいと言い、更に、妻にはこのことは内緒にしてくれるよう頼んだ。

 牧師は私の意図を察し、「なあに、貴方ほどの気の確かな人は決して死ぬ気遣いはありません。激しい病は治るのもまた早いから、無益に令夫人を驚かせる必要も無いでしょう。」と言って、なにやら飲み薬を私に飲ませ、一時間も経たない中に帰ってくると言って、牧師は立ち去った。

 しかし私は内心ではとても助かる見込みのないことを知っていた。目も耳もはっきりしていた普段と違い、見るものは霞がかかったように曇って見え、自分の声は他人の声のように遠くに聞こえ、他人の声は地獄の底から来るように聞こえた。このような状態でもまだ妻の身の事だけを気遣って、懸命に声を上げ、私が死んでもその死体を決して家に持って行くな、決して妻の目に触れさせるなと叫び続けて声を上げた。なんと読者よ、私は親切この上ない夫ではないか。

 やがて、幾ばくかの時が経った後、あの牧師は帰って来て、どうやら果物売りの子供はすでに事切れていたと言うようなことを私の耳にささやいたが、この声がこの世の声の聞き納めとなった。その後のことは何も知らないが、ただ、時々は妻ナイナの顔、星子の顔、ギドウの顔などが稲妻のように目に映ったのを覚えている。これは死に際の妄想と言うものだろう。

 読者よ、世に死ぬることほどつらいことがあるだろうか。罪を犯してもうこの世に生きていられないと決まった罪人でさえも、まだ死を逃れようと色々な試みをするが、私は年二十七才、家は裕福で妻子、友に愛され、世間からは敬(うやま)われ何一つ不足のない身で、浮き世の面白い真っ盛りとも言うべき時に、突然の伝染病に引っ立てられて地獄の底に引き込まれて行く私の悔しさを察して欲しい。

 ええ、今死んでたまるかと、我が力の続くだけは頑張ったが、頑張りも尽きてだんだん消えて行き、「おのれ」と叫ぶ声も出ず、拳(こぶし)を握ろうとしても握れず。そのうちに何もかも分からなくなり、深く深く、底へ底へと沈み込む気持ちがしたのもちょっとの間で、後は漠、漠たる無、無、無、無の文字さえない世界となった。これがもし死というものならば、読者よ、私は確かに死んだのだ。1884年8月15日、ネーブル府(ナポリ)の酒店で、私伯爵ハピョは哀れ27才を一生として死んだのだ。

 死、死、知らず、知らず、すべて知らず、知るということが既になければ、知らないと言うこともまた知らない。どれだけの時間か、どれだけの間か、無無たる無、空空たる空のうちに、ただ一つ、何かあったように感じた初めは死んだ私が生き返った時だろう。

 初めは体はなくてただ心地だけあるような心地がした。次には物はないのに重さだけがあるように思えた。重さは何だろう。心地は誰の心地だろう。私か他人か。考えることもできなく、考えないこともできない、これからまたしばらくして、心地は少しずつ明るくなり、重い物はまたますます重くなり、ようやく私の体のうち喉(のど)だけは存在することを自覚した。心地も喉にあり、重さも喉にあり、誰かが私の息を止めようとして、私の喉を締め付けているような気がした。放せ放せ、私の喉を放してくれ。

 「誰だ」、「私の手を取り」、「払いのけてくれ」、このようなことをつぶやくうち、たとえれば「○○○○」のような微々たる分子が、四方八方から集まって来て、そろり、そろりと場所を占め、私の心を作り元に戻した。蕾の花が初めてパット開いた時の気持ちはきっとこのようなものではないかと思われる。

 意識が戻ったようだが詳しいことは分からない。ただ暗く、ただかすかに、ただ静かなところに、存在する一物はこれ私の体。縦か、横か、上はどちら、下はどちら、これも考えるに従って、背中に固い物があるので仰向けに寝ているのだと分かり、開いても目が見えないからは暗闇の中と分かった。

 ついに、ついに、私は完全に目覚めた。ああここはどこだろう、何と濃深な暗闇だこと、なんと希薄な空気だこと、息をしようにも十分な息を許さない、さては喉が重く苦しく思ったのも息が自由にできなかったためか。考えるに連れて、伝染病の事も思い出された。牧師のことも、酒店のことも、余りにはっきりしすぎて恐ろしいほどありありと思い出した。

 それにしても誰が私の枕を奪い取ったのか。何時の間に夜になったのだろう。射る矢のように胸に一筋恐ろしく突き刺さって、私は初めて体を動かし、まず、両手を探ってみると、手にはまだ暖かみがあり、胸を探ってみると張り裂けるばかりに高い鼓動があった。ますます苦しいのは息遣いだけだった。

 読者よ。このように分析して書き記せば味も趣も無くなるが、以上に記したことはただ一瞬のことで、ほとんど前後の区別もなく、私の体に群がり起こったことなので、この時の騒がしい私の気持ちはただ思う事ができるだけで、書くことはできない。

 誰が空気を妨げて私の口に入れないようにしているのだ。空気、空気、これがなければ蒸し殺しになってしまう。どうしても空気をつかみ取って食わなければ、私は一刻も生きていることはできない。もがきながら手を伸ばしてみて、私は「キャッ」と叫んだ。

 手に触れたのは非常に堅(かた)い板だった。私の四方は堅い板で囲まれていたのだ。こう思うよりも早く私は何もかも理解した。理解しても理解したと自分に知らせるのも恐ろしい無惨な事実を理解したのだ。読者よ、私は埋められたのだ。生きながら死人として・・・・・。四方から囲んだ板は棺箱だった。読者よ、読者よ、助けてくれ!

 (作者曰く、ハピョが生き返った記事は鉄仮面のオービリヤが生き返った記事と非常に似通ったところがあるが、これも事実であり、あれも事実であるので、同じにならざるを得ない。ただ、後になって大いに異なって来るので、原書の通りに訳す。面白みを出すための単なる作り事だと即断だけはしないでほしい。)

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