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hitonotuma10

人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)十 「立派には言い切った」

 帰る道々、丈夫は甚(ひど)く鬱(ふさ)ぎ込んで、一言をも発しない。是は槙子の憐れむべき境遇が気に掛かる為らしい。母御の方は博士に向かって無言で居る譯に行かないから、波太郎の悔やみを述べて、
 「先ア若いのに何して急に亡くなったのでしょう。」
と問うた。

 博士「イヤ私は直ぐにその次第を槙子に問いましたが、何所かシドニー府の邊に住んで、メルボルーンの方へ出張して居ましたのが、帰る為に汽車に乗った所、地辷(ぢすべり)でその汽車が地の底へ落ち込んで、乗客一同死んだ相です。是は勿論此の国の新聞にも通信が出て居ました。」

 母御は身を震わせて、
 「オヤオヤ、それは無惨な事ですねえ、そうして死骸は」
 博士「分かったのも有り、分からないのも有り、不幸にも波太郎の死骸は分からないうちの一つで有った相です。」

 母御「死骸が分からないのに、何して波太郎が死んだと分かります。もしやーーー。」
 博士「イイエ、死んだ事に間違いは有りません。尤も槙子の方では未だ帰る頃で無いと思い、その汽車には乗って居ないだろうと安心して居ました所、直ぐに出張先の友人から、その汽車で波太郎が立った事を知らせて来たのだ相です。その友人は波太郎を停車場まで見送り、乗車して出発する迄、汽車の窓で波太郎と話して居た相です。それからその汽車は地辷りの所まで何の停車場へも寄らず、一人の客をも下ろさなかった相ですから、少しも疑う所は無く、その汽車へ多くの人夫などを載せて有った鉱山局から、槙子の許へ波太郎死去の通知が有ったのです。その通知書も槙子の持って居るのを私が見たのですから。」

 成る程疑いを入れる所は無い。
 此の日が暮れて博士の立去った後に、母御は丈夫に向かい、
 「如何にも其方(そなた)の云った通り、槙子は珍しい程の美人だ事ねえ。」
と云った。

 丈夫は勇んで、
 「本当に美人でしょう。」
 母御「のみならず、王族の血筋でも引いて居るかと思はれるほど、自然の品格が備わって。」
 丈夫「そうですよ。屹(きっ)と高貴な家筋の末だろうと思います。」
 母御「だけれど丈夫、風間夫人の言葉附きでも、何だか槙子の身の上は秘密に包まれているようではないか。私は槙子を可哀想には思うけれど、其方の妻に成る女とは思わないよ。」

 母御の言葉は突抜(だしぬけ)である。
 丈夫「私の妻に、誰が阿母(おっか)さん、槙子を妻にするなどと云いました。」
 母御「イヤ、誰もそうは云わないけれど、私は又其方が若しや其様な心を持ってでも居はしないかと思って。」

 丈夫「幾等美人だと言って、波太郎の妻で有った女では有りませんか。」何で私が槙子を自分の妻などと、其の様な事を思いますものか。」
 立派には言い切った。此の時は全く此の通りの心で有った。けれど自分さえ気の附かない其の心の奥底に、何だか微かな一粒の種が潜んで居るに違い無い。

 潜んで居ればこそ急に輪子の欠点も見える様になり、総ての様子に何所と無く母御から、若しやと気遣われる所も出来、今の様な言葉も聞く事になるのだ。此の潜んで居る一粒の種が、自分さえ知らない間に芽を吹いて、心一杯に広がる事に成りはしないだろうか。自分で其の様な事は無いと安心して居るだけ猶(なお)危険だ。

 此の後、丈夫は度々博士の許へ行く。それは博士が来る度に誘うからでも有るが、何だか行かずには居られない様な気もする。ロンドンから帰れば屹度(きっと)博士の家に行く。けれど輪子と槙子との傍へは成る丈け近寄らない様にする。何故だか初めと違って近寄り難いのだ。

 是だけ彼の心に違った所が出来て居る。そうして多くは博士の天文台や化学室へ籠り、博士の手助けに時を移すのだ。うかうかすると化学室の窓から、庭に赤ん坊を遊ばせて居る槙子の姿が見える時も有る。その時には直ぐに窓から退いてしまう。

 此の様な様であるから誰も丈夫の心を読む者が無い。鋭い風間夫人でさえも、曾て輪子に向かい、一度自分が丈夫に逢えば、果たして丈夫が輪子へ縁談を言い込む気で居るか否かが分かると広言したにも似ず、今は幾度も逢ったけれど、輪子へ何事も報告しない。或る日輪子は悶(もど)かしく思って自分の方から催促した。

 風間夫人の方でも、博士に対する自分の運動が少しも進歩しない為め、之を幾分か輪子が自分を助けるのに不熱心なるが為の様に思い、余り輪子を有難く思わない。元の様に空世辞で煽り立てる様な事もしない。それで輪子の催促に逢って、
 「左様さ、丈夫さんの心は貴女よりも槙子の方へ傾いて居る様です。」

 輪子は驚いた。
 「エ、槙子に、だって槙子に逢っても世辞さえ云わないでは有りませんか。」
 夫人「元から世辞を云わない気質なんですけれど、その中にも変な様子が見えますよ。」

 輪子は少し怒って、
 「槙子の様な、下女にまで何うぞ斯うして下さい、彼(あ)あして下さいと物事を頼む様な不見識の女が、丈夫さんの妻に成れますものか。丈夫さんは家の中を切って廻す様な、確かな女で無ければ嫌いです。」
 夫人「所が、槙子がアノ様に謙遜なのは、却って丈夫さんの同情を引いて居ますよ。槙子を不見識な女と思っては違います。先達ても私の言った通り、何か気が咎める所が有って、今では自然と頭が低いのです。私は立派に槙子が丈夫さんの妻に成れると思います。」

 輪子は怒りを強くして、
 「丈夫さんの心を、私の手から奪うとは甚(ひど)い女だ。逐出(おいだ)してしまいます。もう此の家へは置きません。」
 叫んで居る所へ丁度槙子が入って来た。此の様な事とも知らず、
 「今、出口で丈夫さんに逢いましたよ。」
と何気も無く云った。此の一語は燃いる火に揮発油を加える様な者で有った。輪子の怒りは忽ち沸騰点に達した。



次(本篇)十一

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