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hitonotuma13

人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)十三 「一種の悟りを開いた」

 丈夫は、槙子を送って行く道よりも、その帰る時がより一層物思わしげである。耳には輪子の咆(ほ)えた怒りの声が尚残って居る。実に何たる恐ろしい女だろう。それとも知らずに此の身が、妻にも仕たいとまでに思ったのは、何たる過ちで有ったろう。

 早くその過ちが分かったのは先ア好かったと、此の様に思うと我知らず身震いも出る。しかし物思いの本当の種と云うのは、輪子の恐ろしさでは無く、槙子の不憫さに在るのだ。不憫さは即ち懐かしさである。そして即ち恋しさで有る。自分の心の中に強い愛と云う念が兆した事は、最早や自覚しない譯には行かない。

 何だって此の様な辛い愛が出ただろう。相手も有ろうに、一旦波太郎の妻で有った女が慕わしいとは、何たる情け無い事だろう。何しても此の愛を、誰にも知らせては成らない。知らさない中に、自分で揉み消さなければ成らないと、此の様にも思うけれど、何うすれ消えるかそれが分からない。

 のみならず、その消し度い心の又一層底に、之を消すのは惜しいと云う念が有る。又考えると、槙子は何が何でも真に愛するに足る女である。厳しい我が母でさえも同情を表して居る。

 誰が見ても全く憐れむべき境遇に沈んで居る者を、此の身が愛しながらにその愛を隠し、故(わざ)と疎々(うとうと)しくするのは意地悪ではないだろうか。卑怯と云う者ではないだろうかと、腹の中から自分の薄情を責める声が聞こえる様にも思う。

 それに続いて又、汝が愛するのみでなく、先方(さき)も汝を愛して居るのにとの声が、何所からか聞こえる様に思う。
 真に腹の中が掻き乱れるとは、此の様な状(さま)を謂(い)うので有ろう。掻き乱れて歩みも進まなかったが、暫(しばら)くして奮然と思い定めた。全く槙子の傍に近づかない事だ。近づけばこそ此の様な妄念も起こるのだ。

 博士の家へも、もう行かない事にしよう。イヤ此の土地にさえも、成る丈帰らない事にしよう。
 思い定めて忽ち走り出して、一散に我が家へ帰った。此の翌日は直ぐにロンドンへ立った。そうして四週間ほど帰らなかった。けれど無益である。日を経れば経るに従い、思いが募る許り。一刻でも槙子を忘れると云う事が出来ない。

 やがて又一種の悟りを開いた。アア是と云うのも、自分で槙子を愛しては成らないと思うから、却って心が募るのだ。恐それれば恐れる丈け、その恐れが増長するのは常の事だ。自分の心さえ確かならば、何も槙子を恐れる事は無い。

 平気でその傍へ接近もし、平気でその姿を見もし、槙子と他の人々へ、少しも区別を附けない様にすれば、心も自然と静かになり、槙子を見ても誰を見ても、同じ様にしか感じない事に成るのだと、誠に賢い考えが出た。

 此の考えで家に帰った。帰るその嬉しさは並大抵では無い。全く世界が広くなった様な気がする。何故だろう。再び槙子を見る事が出来る為ではないだろうか。自分ではそうは思わない。唯だ悟りを開いたが為だと思って居る。

 先ず母に留守中の事を問うて見ると、母と槙子との間は案外親密に成って居る様子である。母は他の事よりも多く槙子の事を話し、
 「逢う度に値打ちの上がるのは彼女だよ。何して波太郎の様な者の妻に成ったのか、私は合点が行かない。」
と言って、甚(ひど)く残念に思う様子である。

 波太郎の未亡人でさえ無ければ、其方(そなた)の妻に出来るのにとの心は、自然に言葉に籠って居る。ナニ籠って居たとしても、嬉しいとも何とも無いと、丈夫は先ず自分の胸に呟(つぶや)いて置いて、そうして、
 「そうですか。」
と全く平気の様に答えた。

 母御「其方(そなた)は大層冷淡にお成りだねえ。」
 丈夫「別に冷淡でも有りませんのさ。初めも今も同じ事です。」
 母御は又誰れか他の女をでも、見初めたのだろうかと、怪訝(けげん)に思ったが、勿論冷淡に成った者を、熱心へ引き戻すには及ばない事だから、そのまま口を噤(つぐ)んだ。

 母さえ冷淡と云う程だから、もう槙子の傍へ寄っても大丈夫だ。何も勉めて遠ざかるには及ばないと、愈々(いよいよ)こう思って心が確かになって、翌日は博士の許を尋ね、先ず例(いつも)の化学室へ入った。博士はここに居て非常に喜び、

 「長く見えませんでしたね。爾(そう)、爾、爾」
と云い、近々槙子がロンドンへ行ってしまう事に成ったので、此の家が淋しくなるとの旨を語った。槙子が何でロンドンへ行くのだろうと、少し怪しむと共に、冷淡と思って居た丈夫の心が、異様に騒いだ。

 此の様な筈では無い。何か室内の空気の中に、脳へ感ずる異分子でも有るのかと思い、直ぐに立って窓から顔を出した。生憎此の時目に留まったのは、庭に子供を遊ばせて居る槙子の姿である。 
四週間見ない間に、百倍も美しく成ったと疑われた。



次(本篇)十四

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