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人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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   人の妻  バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳

         
    (本篇)二 「爾(そう)して丈夫の顔を見た」

 遥々豪州から、赤児を連れて、見ず知らずの人を頼って来る大津槙子(まきこ)、果たして何の様な女だろう。素性や容貌は兎も角も、その身の上は随分哀れむべき者である。

 波太郎の様な、放埓(ほうらつ)な薄情な者の妻に為ったのさえ、何の様な事情か知らないが、決して運の好い女とは云われない。手紙の様子で見ると、波太郎から碌にその日の小使いさえも当てがわれず、後には有るか無しに扱われて、そうして姉だか妹だかの世話になり、苦労をし抜いた果てが、その身は妊娠となり、所夫は出先で急死した。後には生まれる児の手当さえ残して無い。実に女の身としては不幸せの極度であろう。

 丈夫は此の様な事を思いつつロンドンに行った。着いたのは午後の二時過ぎで有ったが、少しの用事を済ませ、四時頃に汽船会社へ行き、豪州からの船が明日の何時頃着くか聞いた。所が一日日取りが違って、既に今朝入港したとの事である。丈夫は実に驚いた。

 そうすれば彼女は既に上陸して何所へか行っただろうか。イヤ出迎人の行かないのに、上陸する筈は無い。きっと船の中で、心細く待って居るだろう。とは云え是から行って上陸させた所で、夜に入った後汽車に乗せて、直ぐに博士の許へ出発させると云う譯には行かない。

 きっと船の疲れも一通りで無いだろうから、何所かへ宿を取り、今夜だけは緩(ゆっ)くり休ませて遣らなければ成るまいと、何から何まで良く気の附く丈夫が、先ず最寄りの宿屋へ行って、一室(ひとま)を借り、晩餐の用意まで命じて置いて、直ぐに船へ行った。

 途中から雨が降り出したので、生憎の天気だと思いながら船へ着くと、船は荷物陸揚げの最中で、それに大降りにならないうちに揚げてしまう積りと見え、船員一同の忙しさは一通りで無い。近寄って物言おうとすれば、突き飛ばされ相な有様なので、先づ彼等の手の空くまで待って、その上で大津槙子の事を問うて見る事にしようと、その身は船の談話室へ入った。

 何しろ予定より一日早く着港した為、未だ出迎い者が来ずして、上陸せずに待って居る様な人が沢山ある。その中の何れだろうと見廻して居る丈夫の目に、少しの間、自分の用事さえ、又大津槙子の事さえ打ち忘れる程の姿が留まった。それは一方の窓の所に立ち、物思わしげに陸の方を眺めて居る一人の美人である。

 年は十九か、精々で二十歳だろう。丈夫の方へは、顔が半面より少し多く、殆ど六、七分通り見える様に立って居る。美しいと云おうか。イヤ美しいと云うのは此の女の綺倆に追い付く言葉では無い。美しさを通り抜けて何だか勿体無い様に丈夫の目には見える。

 勿論長い船旅で疲(やつ)れては居るのだから、綺倆だけには引き立っては居ないけれど、上陸の用意に着物だけは新しそうな物を着けて居るが、眼なら口許なら、丈夫の今まで見た女には類が無い。そうして取り分け丈夫の心に深く感じたのは、その顔付の上品なのと、憂いを帯びて居る所とである。

 憂いの色は心配さへ無くなれば消えるだろうが、その上品な所だけは持って生まれたその身の位と云う者だから、一生涯消えもしなければ、又他人が真似する事も出来ない。俗人の仲間に生まれた者は、幾等勉めても此の「品」と云う者の備わる事は出来ない。余ほど人に崇められる様な家柄に生まれた者には違い無いが、何して此の様な人が豪州に居たのだろうか、それとも途中の何所かの港から乗ったのだろうか。

 丈夫は曾て女の綺倆などに気を奪われた事の無い男だけれど、此の時ばかりは、全く我を忘れて、知らず知らずに心が抜け出て、唯だ恍惚として居たが、此の時、丈夫の直ぐ傍で、
 「阿母(おっか)さんは何だって出迎いに来て呉れ無いのだろう。自分が来無ければ代わりでも寄越し相な者だ。」
と云う女の声が聞こえ、丈夫が、

 「ハテな」
と漸(ようや)く我に復(かえ)ろうとする瞬間に、その声は無遠慮に高くなって、
 「ボーイさん、ボーイさん、未だ私の迎えは来ないだろうか。」
と叫び問うた。アア此の俗くさい声を出すのが、波太郎の妻なんだ、とこう思って振り向いて見ると、如何にも波太郎に必適の女である。

 下品で、何と無く騒々しくて、之を男に直せばそのまま当年の波太郎が出来る。丈夫は直ぐにその傍に寄り、
 「私が出迎いに参りましたが、貴女はアノ豪州から児を連れてーーー」
 女は丈夫の優しく立派な姿に深く満足の様子で四辺(あたり)の人へ、私の出迎い人を見て下さいと云う様な風を示し。

 「そうです。そうです。子を連れて遥々帰って来ましたが。」
と云いつつ、丈夫の名札を受け取り、
 「オオ男爵伴野丈夫さんですか。」
と男爵の二文字を殊更に高く読んで、

 「お名前は聞いて居ませんけれど、父と御懇意なんでしょうネ。」
 丈夫「ハイ是を御覧下されば委細の事がお分かりに成ります。」
と今度は博士からの紹介状を出して渡した。女は少し読み、
 「オヤ違います。大津槙子と云うのは私では有りません。」
と投げ捨てる様に手紙を返し、非常に失望の体で又も、
 「ボーイさん、ボーイさん、ボーイさん」
と呼びながら去ってしまったのは、時に取っての茶番であった。

 此の女の云った大津槙子と云う名前に、窓際の彼の美人は、此方を向いた。そうして丈夫の顔を見た。その目付きの麗しさは何うだろう。殆ど受け切れない程の心地がする。そうして何だか物言い度げである。さては此の美人、船中で大津槙子と親しい仲と為って居て、我に知らせて呉れようとして、少し躊躇するのだナと丈夫は見て取った。

 丁度此所へ船長が遣って来た。丈夫は美人の方から聞き度いけれど、止む無く船長に向かって聞くと、
 船長「イヤ大津槙子殿ならばここに居られます。」
と云い、意外にも彼の美人の傍へ行き、
 「お待ち兼ねのお迎いがお出でに成りました。」
と非常に丁寧に云った。総て美人は人混みの中では醜婦よりも、尊敬せられて居る者だ。

 此の美人が大津槙子だろうかと思うと、丈夫の胸は何と無く騒いだ。それを推し鎮めて美人に向かい、
 「私は大津博士の代わりに参りましたが、先づ之を御覧下さい。」
と非常に柔らかに云った。槙子は受け取って読む中も、非常に悲しそうに、そうして非常に力無さそうである。やがて読み終わって、
 「大層博士が御親切にして下されます。アノ是から上陸致すのでしょうか。」

 物言いも全く貴婦人である。
 丈夫「ハイ貴女の御用意さい出来れば、直ぐに上陸致しましょう。尤も雨も降り、寒さも寒い、今夜直ぐに博士の許までと云うのは、お身体にも障るかも知れませんから、来る時に私は貴女の宿を取って置きました。」

 美人は恐縮した様子で、少し顔を紅くして、
 「何から何まで、お心附け下さって有難う御座います。荷物も用意が出来て居ますから、それでは赤ん坊を連れて来ます。」
 こう云って美人は
船室の方へ行ってしまった。

 「赤ん坊と云う一語は、丈夫の耳へ恐ろしく不愉快に感じた。成るほど此の婦人には赤ん坊が有ったっけと初めての様に思い出した。のみならず波太郎の事まで思い出した。何故だか知ら無いけれど、丈夫は槙子の顔を見て以来、此の二者の事をすっかり忘れて居た。



次(本篇)三

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