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人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)二十 「忘れぬ様にしたい」

 夫婦と云う約束は、先ず無事に出来てしまったが、是より後が果たして滑らかに行くだろうか。勿論丈夫は滑らかに滑らかに行かない筈は無いと思って居る。

 此の夜丈夫は一旦帰って出直して来て、此の家の晩餐に列なった。別に変った事も無いが、既に家内一同、丈夫と槙子と約束が決まった事を知って居るから、話は多くその辺の相談に流れ、道子の夫は、是非此の家を槙子の里方同様にして、当日は此の家から馬車で式場へ出る事に仕たいと云った。

 果たしてロンドンで婚礼するか、将(は)た又アルードの寺院で婚礼するか、未だ決まって居ないけれど、丈夫は此の親切に免じて、ロンドンで行うと云う事に決めた。道子の方も夫に負けぬ親切な案を立て、槙子の子を永く此の家に預かって置こうと云った。

 連れ子の有ると云う事は、余り夫婦の仲に面白く無い事柄だから、道子の計らいはその邊を察しての事である。槙子は何とも云わないけれど、若し丈夫が赤ん坊を邪魔だと云うなら、そう頼まなければ成らないか知らんと、内々心配して思案する体である。

 通例の場合なら何の様な事が有っても、児と分かれることは出来ないけれど、唯だ丈夫の為には、何の様な辛い我慢もしなければ成らないと、堅く決心して居るのだから、思案もするのだ。その心根を察すれば、丈夫は真実に有難く思わなければ成らない。

 丈夫は暫くは無言で居たが、やがて槙子の心中を察した。槙子が「それは出来ません。」と云うだろうと察したのに、そうも云わない。此の返事は自分が槙子に代わって仕て遣らなければ、男の一分が相立たないとまで思った様子で、

 「イイエ、此の児は、こうなれば私の児も同様ですから、槙子と私との間で大事にして育て上げますけれど、そうまで仰有って下さる道子さんの御親切は、充分感服致します。」
と謝した。
 道子もその夫も、大いに丈夫の心の気高い所に感心した。取り分けて槙子は有難涙に暮れる程であった。

 此の通り誰も彼も、自分の都合を捨てて、人の都合のみ心掛けるのだから何事も圓く運ぶに極まって居る。圓く運ばない筈は無いのだ。此の翌日、丈夫はプルードへ帰った。そうして第一に博士の家に立ち寄り、此の事を博士に伝えた。博士は「爾(そう)、爾」の持ち切りで、非常に喜んで、

 「こうなれば、私から五千ポンドの婚資を槙子へ贈ります。」
と云った。
 親切な博士の気質から云えば、少しも怪しむには足りないけれど、丈夫は一時意外な程に感じた。勿論我が妻たるべき者の幸福を、夫たる者が遮る筈は無いのだから、厚く礼を述べた上、

 「イヤ私も何とか五千ポンドだけ算段し、合わせて一萬ポンドの金を、槙子と其の子との独立財産とし、婚礼と同時に登記を経ます。」
と云った。 
 博士「爾(そう)です。爾です。」
と爾々の間へ「です」まで挟んで、

 「何しろ目出度い譯だから、今夜私は槙子の所へ祝詞を贈ります。何うか忘れない様に仕たい。」
と云い、手帳を出して故々(わざわざ)書留め、
 「何うも忘れ易くて困ります。先達ても大変な用事を忘れては成らないと手帳へ書留た事を、すっかり忘れて仕舞い、非常に困りました。」

 今度は丈夫の方で、
 「爾(そう)、爾」
と返事をし度い。
 先ず博士は此の通り喜んだけれど、輪子が是を聞けば、何うだろう。喜ばない事は云う迄も無いが、唯だ喜ばない丈では済まないだろう。

 まだ幾度か、獣の咆える様な泣き声を聞かされる事と、丈夫は覚悟して居なければ成らないだろう。けれど此の時は急いで居るから、博士に分かれるや否や、直ぐに我が家へ帰った。博士の次には我が母に知らさなければ成らない。

 母には曾て、
 「幾等美人だと云って、波太郎の妻を我が妻にしますものか。」
と言い切った事が有るだけに、今更
 「槙子と縁談が出来ました。」
とは云い憎い。

 と云って云わずに済まないから、思い切って言い出したが、母は聞かない先から、何時も真面目な丈夫の顔が、今日に限って、包み切れないほど笑みてハチ切れ相に成って居るので、早や察してしまい、少しも驚きはしない。
 「其方が何と云っても、私は遂にこうなる事と、先頃から思って居ました。」

 丈夫「では阿母(おっか)さん、貴女も賛成して下さるのですね。」
 母「望みを云えば限りも無いが、槙子ならその気質が、今の世に珍しいほど誠実な様に見えるから、先ず良い嫁だと思います。シタが其方は良く素性などは聞いただろうね。」

 素性の調査が何よりも先に立つのは当然である。丈夫は「ハイ」と答えて、その次に、「イイエ」と答えた。
 「良くは問いませんが、何でも自分の妹だか姉だか、「まっちゃん」と云うのと共に、不行届きな父の手で育てられ、酷い艱難の中で育った様です。
 そうしてその父と云うのが、余り正直な生計は営んで居なかった様ですけれど、私は当人に満足して居るのです。当人さえ愛すべき性質の女ならば、此の世に無い父や姉妹の事などは、聞くに及びません。」

 此の点だけは母が賛成する事が出来ない所であるけれど、今直ぐに聞かなくても、幾等も緩々(ゆるゆる)聞く折があるだろう。それに又、聞いた所で太した不都合が有り相な女でも無い。波太郎の妻であったと云う事が履歴の中の、一番悪い所に違いない。

 それをさえ此方で耐(こら)えるとすれば、その外はたとえ何の様に悪くても、それよりは耐(こら)え易いに違い無いと、大凡その多寡を括(くく)って、敢えて愚痴らしい言葉を吐かないのは、流石醉も甘い嘗め尽くした母御である。

 「取り敢えず私は、其方と共に、ロンドンへ行き、槙子に逢いましょう。そうして様子に由れば、一週間ほど此の家に連れて来ましょう。」
と云って、此の翌日を以て母御は丈夫に就いて、ロンドンに出て行く事になった。



次(本篇)二十一

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