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hitonotuma21

人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)二十一 「蛇に足の有る種類は」

 此の縁談が恐ろしい輪子の耳に入ったのは、丈夫が博士に面会したその日の夜であった。
 晩餐の席で、家内中が集って居る前で、博士は笑みながら、
 「今日、伴野丈夫さんが改まって尋ねて来たが、何の用事だと思います。」
と、当てさせる様に云った。少しでも時間を無駄に捨てない博士が、こう迂遠(まわりどお)く、そうして機嫌良く云うのは余程嬉しい事柄に違いない。

 輪子は、
 「ソレは此の身へ愈々(いよいよ)縁談が来て、父がそれを承諾したのだ。」
と思い詰めた様子で、急に文紋(えもん)を作って《服装を正して》ずっと澄ましこんだ。風間夫人は、愈々(いよいよ)輪子の失望する時が来たと、流石に星を指す様に見て取った。けれど夫人は此の朝輪子と喧嘩して、輪子を針ででも衝(つ)いて遣り度いほどに思って居る時である。丁度好い機会が来たと思い、

 「分かりました。輪子さんに縁談を申し込んで来たのでしょう。」
と云いつつ、顔の底に気味好しと云う念を隠し、却って祝する様に笑みを浮かべて、輪子の澄ました顔を見た。博士は驚いて、
 「輪子へ縁談、ナニその様な事が有りますものか。槙子の方ですよ。波太郎の妻、イヤ後家ですよ。既に此の槙子と夫婦約束が出来て、婚礼の日を取り決める許りに成ったと云って、それを私へ知らせて来たのです。」

 風間夫人は非常に真面目に輪子に振り向き、博士の所までは聞こえない小声で、
 「ソレね、丈夫さんは槙子を思込んで居るのだと、私が云ったでしょう。」
 輪子の此の時の顔は実に見ものである。
 「貴女が云った。では貴女は此の事を知って居たのだ。貴女の取り持ちで、屹度(きっと)此の様な事に成ったのです。此の恩知らずめ。」

 自分の思う様に成らない者は、誰でも「恩知らず」である。輪子は余ほど人に恩を掛けて有る積りと見える。風間夫人は更に小声で、
 「静かに成さいよ、腹が立つとも、此の様な事を人に知らせるのは、貴女の面目に掛りますから。」

 宥(なだ)めるのは既に遅い。博士は益々驚いて、
 「何事です。何うかしたのですか。」
 風間夫人「実はね、輪子さんが御自分で、丈夫さんの縁談を受ける事と、心待ちに待って居た者ですから。」

 輪子は愈々(いよいよ)咆(ほ)えた。
 「全体、阿父さんが世間並みに娘の為を思って下さる阿父さんなら、私を此の様な悔しい目に合わせないのです。蛇の様な伴野丈夫に、此の様に踏み附けにせられやうとは、思わなかった。」

 部屋の外へも漏れる程の泣き声である。博士は極々学術的に考一考して、
 「イヤ待ってお呉れ。蛇に足の有る種類は、アフリカ探険者も未だ報告はしていない。蛇が人を踏み附けると云う事は余り不思議だ。」
と云い、手帳へ他日の参考に書き留める積りと見え、衣嚢(かくし)《ポケット》からから手帳を出したが、先刻書き留めた事が目に留まると共に、

 「アア忘れて居た、大変な事を。槙子に祝辞を送くらねば成らないのに、爾(そう)、爾、爾、爾。 」
と数限りも無く続けて書斎の方へ飛んで行った。
 後に輪子は、更に猛(たけ)って、
 「此の婚礼を無事に済ませて耐(たま)る者か。幾等伴野丈夫でも槙子の本当の素性を知れば、妻にするとは云わないだろう。彼女の本当の素性をって遣ろう。云って遣ろう。」

 風間夫人「でも槙子の素性は、貴女だって知らないでは有りませんか。」
 輪子「エ、知らない。ハイ、私は知らない。でも貴女が知らせて呉れました。槙子は波太郎と婚礼さえした事が無く、野合の果てに夫婦同様に為ったのだ。此の国などでは、許し難い堕落者だと、そう云ったでは有りませんか。」
 
 風間夫人「ナニそうまでは云いませんよ。豪州の様な不行届きの国だから、若しや婚礼の式を経て居ないのでは有るまいかと、唯だ疑いを。」
 輪子「イイエ、云いました。云いました。そうで無ければ、強姦を受けて子が出来た者のかも知れない。それで無ければ妻としてアア波太郎を憎む筈が無いと云いました。私は風間夫人までこう云って居ると、丈夫さんへ云いますから構いません。」

 風間夫人は随分良く人の悪口を云う。イヤ何してアアも、悪口の種が有るかと怪しまれる様に、何所からか、人の欠点を見出し、又は編み出して来る質(たち)だけれど、悪口を云う女の様に、人から思われるのを非常に厭がる。それに野合者と云う様な容易ならない疑いを、人に掛けた事が、丈夫の耳に入り、従ってその様な事の大嫌いな博士の耳へでも入っては、大変だと思い、切に輪子を諫めたけれど、輪子は何しても承知しない。翌日に及び、丈夫に当てて、

 「御身の一身に取り、最も大切な事件にですので、」
と云って、是非とも逢いに来て呉れと、手紙をロンドンの宿へ送った。是れは丈夫が早や母を連れて、ロンドンへ行ったとの事を聞いた為である。若しや輪子の此の手紙が、槙子の素性を明るみへ出す本となるのでは無いだろうか。若しそうだとするならば、何の様な素性だろう。



次(本篇)二十二

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