巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma27

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)二十七 「失敗の中に勝利」

 結婚を申し込んだ事は無いと云われて驚く程なら、初めから風間夫人の様な振る舞いは出来ない筈だ。夫人は仲々驚かない。未だ博士をやり込める積りで居る。

 イヤ、やり込める事が出来ると信じて居る。驚かないけれど、旨く驚いた様な風をして、その上に更に心の底に、余ほどの怒りを催した様な風をも加えて、暫(しば)し無言で博士の顔を見詰めた。

 他の人ならば知らないが、博士は少しも此の様な微妙な顔色など見て取る事は出来ない。イヤ出来るけれど時間が惜しいから、成るべく人の顔色などを、読まない様に勉めて居るのかも知れない。

 兎も角も、夫人の暫(しば)し無言で居るのを見て、もう用事が済んだ者と見做し、サッサと自分の用事に取り掛かり相に見えた。取り掛からせては、取り逃がすのも同様だから、夫人はその呆れて物も云われないと云う様子を、好い加減に切り上げて、
「本当に貴方には呆れましたよ。」
と叫んだ。

 宛(まる)で博士の言いたい事を、此方から云ってやる様な者だ。
 「お忘れ成さるに事を欠いて、私との結婚をお忘れ成さるとは、此の様な事が若し他人え聞こえたら、貴方は何と成されます。」
実に巧みに言い廻して居る。博士は迚(とて)も此の弁巧には敵し得ない。少し困った様子で、

 「ハイ、一時は忘れて居て誠に済み間ませんでしたけれど、思い出したから好いでは有りませんか。少しも結婚について貴女へ申し込んだ事の無い事を。」
 夫人「アレまだ彼様(あん)な事を云って居らっしゃるよ。」
 博士「申し込んだ事の無い事は、何所の裁判所へ出ても誓います。」

 博士がこうまで物事を確かに言い切った事は無い。何でも勢いで以て圧倒すれば、譯も無く行く事の様に思って居た夫人も、少し当てが外れた。
 「此様な筈では無かったが。」
と胸の中で呟いた。

 けれど一時の当ての外れたぐらいに、中々メゲる夫人では無い。勢いで圧倒する事が出来なければ、今度は憐れを催させる手段を取る迄だと、咄嗟の間に兵略を替えた。

 憐れとか不憫とか云う念が、此の博士を一番に弱くする力が有る。不憫と云う念が起これば、決して抵抗する事は出来ない。夫人の声は直ぐに泣き声と為った。老巧な俳優でも羨やむだろうと思われるほど、旨く仕こなした。

 けれど此の夫人の此の兵法は、まだ欠点が有る。昔から己れを知り敵を知る者は百戦百勝とやら云うが、確かに此の夫人は、敵が憫然(あわれみ)と云う念には、勝つ事は出来ないと云う事は知って居るけれど、肝心の己を知らない。

 己れが人に憫然(あわれみ)と云う心を、起こさせる代物で無いと云う所に、気が附かないのだ。人の物忘れする落ち度に乗じて、有りもしない縁談を、有った様に言い掛りする鐵面の身で、何して人の哀れみを買う事が出来よう。

 泣けば泣く丈け、そのズゥズゥしさを見透かされのだ。却って愛想を尽かされるのだ。
 夫人が泣いて居る間、博士は五月蠅(うるさ)さに耐えられないと云う面持ちで、例の燥々(いらいら)した様が益々す目立って来て、そうして徹頭徹尾、唯だ一語で持ち切って居る。

 「爾(そう)、爾、爾、爾」
を少なくても二、三十は繰り返した。

 泣いても爾々(そうそう)、笑っても爾々(そうそう)、到底目鼻の開いて来る見込みは無い。夫人は第三の兵法を持ち出した。是は勢いで圧倒する第一の兵法と哀れみを起こさせる第二の兵法とを折衷したもので、その持ち出し方が面白い。
 
 「此の様な大事な事までお忘れ成さる様では、他人に何の様な迷惑をお掛け成さるか知れません。私はそれが心配で、貴方のお傍を離れる事が出来ません。」
と云った。

 博士は何と思ったか、
 「ハイ私の傍には、全く然るべき婦人が居て、色々世話して呉れなければいけないのです。」
と答えた。博士の心では、早く内山夫人を迎えなければ成らないとの意を、洩らした居るのだ。
 風間夫人「本当にそうですよ。私しの様な物覚えの好い者が、是非お傍に居なければ。」
 
 博士「爾、爾」
 夫人「貴方は此の次には、台所の女に結婚を申し込むかも知れません。」
 博士「全く私は後妻の必要が有りますよ。」
 夫人「それ御覧なさい。そう思って居らっしゃるから、それで私へ結婚を申し込み成さったのです。何よりの証拠では有りませんか。」
 
 余り証拠でも無さ相だ。
 博士は何時まで辛抱すれば夫人が立去るかと、殆ど途方に呉れた様であったが、やがて、
 「爾、爾、私の後妻になるのは、此の部屋に長居しない婦人に限ります。学問の邪魔に成りますから。」

 仲々思い切って旨い事を云う。何う見ても、夫人は一旦引き上げる外は無いと感じた。引き上げるにしても、二度目の襲撃の為に、道だけ開いて遺(のこ)して置かなければ成らない。

 「もっと貴方もお考え置き下さい。私しも良く考えますから。ハイその上で成る丈け、貴方のお為に成る様に返事を致したいと思いますから。」
 何所までも博士から、結婚を申し込まれた事にして立去った。

 通例の度胸なら、是れでもう失敗したものと、断念(あきら)める所だが、若し故人の云う様に、失敗の中に勝利を見るのが英雄だとすれば、此の夫人は確かに英雄だ。
 「是だけ糸口を開いて置けば、後はもう仕易くなった。」
と外へでてから呟いた。



次(本篇)二十八

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