巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma33

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.4. 13


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

         
   人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)三十三 「罪では無い、手柄だ」

 言わなければ成らない事が有るのに、それを云う勇気が無い。悟れ、悟れと、様々に当人は仄めかして居る様子だけれど、丈夫の方では悟る事が出来ない。イヤ丈夫ばかりでは無い、誰とても、今まで槙子の云った丈の言葉では、悟ってしまう事が出来ない。

 その言い度くて言う事が出来ないのは、何事で有ろう。何の様な悪事、何の様な偽りだろう。槙子は確かに、余程の汚らわしい事の様に思って居る。
それを隠したままで、丈夫の妻に成っては、相済まないと思って居る。だから、
 「貴方の妻に不似合いな汚らわしい素性の女」
などと自分んで云うのだ。

 丈夫は寧(むし)ろ腹立たしそうに見える熱心さで、
 「貴女の今までの境遇は、総て自分から求めたのでは無く、自然にその様に成り行ったのですもの。何で貴女の身に咎が有りましょう。父上や継母や波太郎などには、偽りや汚れが有ったとしても、貴女の身には関係が無いのです。」
と言い切った。

 是れが槙子に対する丈夫の宣告である。無罪の判決を下したのだ。けれど槙子の心では、この様な無罪の判決を、受けるべき者で無いと知って居る。肝腎の事柄を云わないからこその無罪だが、云えば決して無罪では済まないのだ。

 若しも槙子に、人から被(き)せられた罪ばかりで無く、自分から進んで犯した様な罪が有ると知った日には、幾等丈夫が寛大だと云って、何で、
 「汚れた偽りが貴女の身には関係が無いのです。」
などと軽く判決する事が出来よう。

 確かに罪の有る者を、罪が無いと云われては、益々済まない。益々打ち明けなければ成らない。けれど先の親切が、こうまで深くては、益々言い出す事が出来ない。槙子は又も遠回しに、

 「「まっちゃん」が亡くなりましたので、私と赤児と唯だ二人後に残りました。私はもう食べて行く物が無く、住んで居る家も家賃が溜まって、家主から店立てを迫られて居りますし、赤児と共に飢え死ぬ外は無いだろうかと思って居ましたが、幸い近所に、一人親切な後家さんが有って、命だけは繋いで行かれる丈に、貧しい中から何や彼や恵んで呉れました。此の間の私の様は、乞食も同様で有ったのです。その所へ博士から為替を送って呉れました。」

 此の邊の物語は涙ながらである。
 「それで二十磅(ポンド)くらいは送って下さったのであろうか、家賃その他の溜まって居る借金を積もって見ると、切めて五十磅も有れば幾等か凌(しの)ぎも附くのだがと、この様に思いつつ封切って見ますと、四百磅(ポンド)有りました。

 その上に赤児を連れて直ぐ英国へ来いとの。親切なお手紙です。その時の嬉れしさ有難さは、何と言葉にも尽くされません。それからそのお金を、銀行から受け取るのに少し面倒が有りましたけれど、今申した後家さんが、私を銀行へ連れて行き、此の女が大津波太郎の妻槙子に相違無いと、証人に成って呉れ、漸く受け取る事が出来たのです。」

 成るほど豪州邊では、詐欺者が多いから、為替を受け取るにも、自然手続きが面倒かも知らんと、丈夫は思った。イヤこれ以上の事は、何事も思わなかった。

 槙子「此のお金で借金も払い、そのうち二十磅は行方の知れない継母が、若し来たなら遣って呉れる様にと、前の後家さんに頼んで置いて、そうして此の国へ立ったのです。立つ前に私も余ほど考えました。

 此の国へ来て好いだろうか。そうまで博士の親切に甘えては、済まない事は無いだろうかと。けれど此の国へ来ずに居ては、四百磅(ポンド)のお金も、その中に無くなるに決まって居る。自分の身は兎も角も、赤ん坊は博士の孫なので、そう後々まで不自由な目をさせても済まず、それに又自分自身としても、英国は生まれ故郷なので、何うか帰って人並みの身に成り度い。或いは博士の力で、此の身の立つ丈の内職でも探して下さるかも知れないと、此の様に思って、遂に此の国へは来たのです。

 来て第一に貴方にお目に掛り、此の様な親切な、そうして清い人が、此の世に有るかと思うと、急に自分の今までの、ハイ偽りばかりの中に身を置いた事が汚らわしくなり、とても人様の親切を受けられる身では無いと、何だか恐ろしく成りました。

 是はもう、何も彼も打ち明けて、叱られるか見捨てられるか、罪相応な取り扱いを受けなければ成らないと思い、貴方へ打ち明けようと致しましたら。貴方が打明けるに及ばないと、達て押し留めて下さいました。

 アノ時に若し貴方が留めてさえ下さらなければ、今の此の苦しみは無いのです。その場限りに、汚らわしい女だと多分見捨てられてしまい、その上博士にまで追い出されたかも知れませんけれど、今思うとその方が結局心が休まったかも知れません。」

 酷(ひど)く後悔な体では有るが、丈夫は遂に何事であるかを、察する事が出来ない。イヤ自分では全く察し得た積りである。確かに槙子は妹「まっちゃん」の罪を、自分の罪と引き受けて居るのに違い無い。

 妹にこそ罪は有れ、槙子には何の汚れも無い。此の上、幾等聞いても同じ事だと思い、時計を見ると、約束の三時間は長話しの為に、もう大方過ぎてしまった。

 「イヤ貴女の罪と云うのは、私しの目から見ると、却って貴女の手柄です。恥ずべきでは無い。寧ろ誇るべきです。」
と云い、更に何事か云おうとするのを、接吻で消して置いて、明日を約して座を立った。

 罪では無い、手柄だと聞いて、或いはそうかも知れないと槙子は一時、気の休まる様に感じたけれど、真に一時で有る。直ぐに又思い直した。何で悪事が手柄であろう。何で偽りが恥ずべきで無く、誇るべきで有ろう。今一思いに打ち明けしまわなければと思い、

 「貴方」と一声、立ち去る丈夫を呼び留めた。真にその一声は血を吐く程の想いである。丈夫は振り返ったけれど、
 「イイエ、もう聞くに及びません。」
と笑みを浮かべて云い、

 「聞く丈は聞いてしまい、一切合点が行きましたから。」
と云い足して立ち去った。アア是で最う打ち明けるべき機会は全く過ぎ去っ
たのだ。

 打ち明けずに婚礼する外は無い。槙子は絶望の呻き声と共に、長椅子に身を投げて、
 「エエ是でもう、生涯済まない思いをする外は無い。生涯、生涯、此の身を悪事に固めてしまうのだ。」」
と恨み泣いた。

 此の時若し、丈夫がが立ち留まって聞き直したら、槙子は全く何も彼も打ち明けただろうに。一寸の差は千里の過ちを来たすとか。
 真に世の中は慎むべきである。



次(本篇)三十四

a:131 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花