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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma34

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)三十四 「先達ての約束を」

 勇気、勇気、人は何所までも善を為す勇気が無くては成らない。少しその勇気が欠けては、飛んだ間違いを生ずるのだ。槙子が打ち明けなければ成らない事を、丈夫に打ち明ける事が出来なかったのは、少し勇気が欠けていたのである。打ち明ける為に故々(わざわざ)呼び寄せながら、言い難い事を後回し遠回しに云っていた為、それでなくても言い難い事が、益々言い難くなり、終に打ち明ける機会を失したのだ。

 一たび去れば再び帰る事の無いのは機会である。ここで打ち明ける事が出来なかった為、二度を打ち明ける場合は無い。如何なる悪事か知らないけれど、包み隠したままで婚礼しなければ成らない。生涯自分の夫を欺いて居なければ成らない譯だ。

 若し生涯欺き通す事が出来なくて、自然に露見する時が来たら何うだろう。露見して知られるのと、打ち明けるべき時に打ち明けて、許しを請うのとは、実に雲泥の相違である。

 槙子はそれを知らない訳では無い。知ればこそ故々(わざわざ)丈夫に、長時間の面会を求めたのだが、肝腎の所を言い後(おく)れた為め、今は身を責めるのみである。

 「アア云うべき時は過ぎてしまった。」
と返らぬ愚痴を繰り返しては泣いて居たが、此の翌々日、丈夫が来た時に、もう耐(こら)え兼ねたので、少しの暇を見て丈夫に向かい、
 「貴方は何うか先達ての約束を、後々までお忘れ下さるなよ。」
と非常に心配そうに請うた。丈夫は怪しんで、

 「先達ての約束とは」
 槙子「ハイ、アノ、此の後、私の身に許し難い不都合な事が有っても、何うかお叱り為さらずに、その場合には無言(だまっ)て捨ててしまって下さい。ネエ貴方、そうして下されば、直ぐに私は合点して、自分の罪が許されない者だと思い、何の様にも自分の始末を附けますから。」

 丈夫は笑った。
 「何かと思えば、又その様な事を仰有る。百年でも千年でも、貴女の身に、許されない様な事は、出て来ないから安心です。履行する時の無いその様な約束なら、幾等でも。」
 槙子「イイエ、遠からず私は、酷く貴方に立腹される時が有るに決まって居ます。イイエ、本当ですよ。その時は、ネエ、何うか此の約束を思い出し、私の傍へ寄せ附かない様に成さって下さい。」

 丈夫は、「此の様にですか。」と云って、笑いながら故(わざ)と槙子に寄り添った。心を込めた槙子の願いを、殆ど冗談の様に紛れさせてしまった。是で愈々(いよいよ)、槙子の運命は定まったのだ。
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 此の又翌日の夕方である。雨がそぼ降って、人通りも絶えた或る町の老弁護士の事務所へ、覆面に深く顔を隠した一婦人が尋ねて来た。多年世の中の機変に慣れて居る丈けに、老弁護士は怪しみもせず、事件の依頼者として事務室へ通した。

 顔も年頃も分からないけれど、賤しからぬ婦人だとは、身のこなしで分かって居る。やがて人を退けて老弁護士は、成るべく依頼者の言い出し易い様に面を和らげ、
 「何か鑑定の御依頼ですか。」
と問うた。

 是れ此の婦人は槙子であるとは、故々(わざわざ)断るにも及ぶまい。婦人が少し口籠りつつ、
 「ハイ、貴方のお説を伺い度いのですが、アノ、婚礼致しますのに、本名を用いずに式を済ませましたなら、正式の婚礼とは成らないでしょうか。」

 老弁護士は厳重な顔をした。
 「本名を用いないとは、偽名で婚礼の登記を経ると云う事ですね。私の説は明らかです。その様な事はしない方が良いのです。」
 如何にも明らかな説である。

 「でもそうしなければ成らない事情に為って居て、仕方無くそうすれば。」
 老弁護士「何の様な事情でも、婚礼前に男へ打ち明け、そうして本名を用いるのが当然です。」
と法律以外の返事をするのは、知らず知らず婦人に同情を催した為と見える。

 そうしてやがて気の附いた様に、
 「イヤ法律の上から申しますれば、夫婦ともその偽名と云う事を知って居れば、その結婚は無効です。野合私通に等しいのです。その理由は、夫婦慣れ合いの上で、世間を欺くと云う事に当りますから。法律は之を婚礼と見做しません。」

 婦人「シテ女だけ、イヤ夫婦の中の一方だけが、その本名で無いと云う事を知って居る場合には。」
 老弁護士「ハイ、他の一方が、偽名と知らない場合には、その結婚は法律上有効です。本名を用いたと同じ様に、夫婦の義務が生ずるのです。

 その理由は、之を無効とすれば、男女が互いに欺く事が極めて容易になり、何時自分の妻が、その実妻では無いと露見するかも知れず、又何時自分の夫が偽名を以て他の女を沢山欺いて、結婚ならぬ結婚に、他の操を破らせるかも知れません。」
と噛んで含める様に云った。

 是で見ると、槙子は偽名を以て丈夫と結婚する積りなのかも知れない。それとも槙子と云う、その名前が既に偽名なのかも知れない。兎に角も、婦人は偽名でも夫の方で偽名と知らない上は、その結婚が本当の結婚であると理解し、念の為に、もう一度同じ返事を得た。そうして幾分か安心した様子となり、豊に鑑定料を払った上で立ち去った。

 後で老弁護士は漸(ようや)く合点が行った様に頷(うなず)いた。
 「アア彼の婦人は、婚礼の後で男を振り捨てる積りでは無く、生涯有効な夫婦に成って居たいのだ。偽名の結婚が無効で有れば好いと思う娼婦の類では無くて、それの有効を祈って居る、憐れむべき身の上なのだ。

 無効を祈る女なら、後で夫を振り捨てるから、少しも辛い想いはしないが、有効を祈る様なら、その偽名が露見の時に、何れほど夫に対し済まない思いに、その身を苦しめるか知れない。婚礼前に打ち明ければ、夫の方は何うせ心酔して居るのだから、立腹も何もせず、却(かえ)って打ち明けられたのを喜び、真心の女だと感心の度を深くするのに惜しい者だ。もっと好くその邊りを諭(さとし)て遣れば好かった者を。」

 こう云って窓からのぞいたけれど、婦人の姿は何所へ行ったか、早や見えなくなった後である。



次(本篇)三十五

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