hitonotuma35
人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)
バアサ・エム・クレイ女史 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。
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人の妻 バアサ・エム・クレイ女史 作 黒岩涙香 訳
(本篇)三十五 「新年の早々」
新年の一月の早々に目出度く二組の婚礼が有った。一組は槙子と丈夫、一組は内山夫人と大津博士。
初めの一組は直ちに蜜月の旅として大陸へ立った。
次の一組は暫しロンドンへ留まり、先ず娘道子をアルードへ遣わして、風間夫人と輪子とへ、此の婚礼の事を知らせた。
二人に取っては殆ど出し抜けである。博士がロンドンへ行ったのは、槙子の為、内山夫人がロンドンへ行ったのは、丈夫の為め、即ち丈夫と槙子との婚礼へ立ち合う為だろうとのみ思って居たのが、立ち会う為では無く、自分等で婚礼する為で有ったとは、実に驚かずには居られない。驚いて両女の怒った有様は何とも云われない程である。
無論輪子は直ぐに深山の声を出した。風間夫人の方は博士を相手取って契約履行の訴を起こすと叫んだ。自分一人で得手勝手に作った契約が、何所の裁判所に取り上げられる者か、訴えるなら訴えて御覧なさいと、云わない許かりに道子は聞き流した。
のみならず輪子と風間夫人との間にも、随分盛んな咆え合いが始まったけれど、道子は日頃から輪子と此の夫人との余り懇意過ぎるのを、苦々しく思って居るので、咆え合って仲違いするのを此の上も無く満足に感じた。その満足に感ずる様が、両女へ分かって見ると、両女も張り合いが抜け、争うのは不得策だと悟って、好い加減に折り合ったが、更に道子から博士の計らいを言い聞かせると、風間夫人の方は打って替わった。
博士の計らいとは、輪子を風間夫人に預け、その代わり今までの恩給を三倍にして遣る故、その後は両女で別に家を持てと云うのであった。序(ついで)ながら記して置くが、博士は鉱山などを持って居て、仲々の収入が有るので、人に対してもこう豊かに手当てが出来るのだ。
何しろ三倍の手当と有っては、三倍の贅沢と云う意味に当たるから、贅沢より外に目的の無いとも云うべき風間夫人は、徐々(そろそろ)と言葉の調子を和らげて、終に、
「イイエ、博士が私との夫婦約束を忘れるとは、余りですけれど、万事がその通り忘れ勝の方ですから、私は日頃に対して、此度の違約は御許し申します。」
と云って形が附いた。
輪子の方は仲々鎮まらなかったけれど、是れも終には、泣き寝入りの様に終局した。
婚礼後の様は、二組とも唯だ幸福と云うのみで、別に記す程の事は無いが、大陸へ行った槙子は、見聞が広まると共に、総ての事が見違えるほど進歩して、本来の美しい容貌と、備わって居る品格の上に、又一種の光が加わって、誰も羨むほどの新夫人とは成った。
その上に独身で居た頃には現れなかった種々の長所が、丈夫の妻と為ってから現れ、且つは自分でも女に無くて成らない様々な事を、稽古もし心掛けた為め、少しの間に、是れで若し立派な財産でも有れば、実に社交界を風靡するだろうにと、人から思われる程になった。
大陸から帰る少し前に、丈夫の母御へ出すのだと云って、槙子は手紙を認めて居たが、傍らから丈夫が之を見ると、槙子とは名を書かずに唯だ槙子のMの字を一字だけ記して有る。怪しむには足らない様な者の、槙子と明らかに記す以上の事は無いから、丈夫はその事を勧めた。
けれど何故か、日頃丈夫の言葉を拒んだ事の無いのに似ず、之には従わない。そうして丈夫の意を紛らわせる為か、
「貴方は女の名の中で、何と云うのが一番好きですか。」
と問うた。
丈夫の胸には愛が満ち満ちて居るのだから、早や紛らわされて、
「槙子と云う名が一番好きさ。」
と答えた。この様な問答は、新夫婦には毎日の様に有ることで、他人から見れば何が面白いか、颯(さっ)ぱり分からないけれど、当人達に取っては、国家の存亡も之に繋がると云うほど大切に感ぜられる。
槙子「アレ私の名では無いのですよ。外の名の中で何と云うのが。」
之を問うと丈夫の心に、他の女が潜んで居るや否やが分かるかも知れない。丈夫は少し考えて、
「そうさ、槙子と云う名を除けば、松子と云う名が、一番私には懐かしい。」
ありのままの言葉ではあるけれど、槙子は顔色を変えた。
「エ、松子と云う名が、それは何故に。」
ヤッと平気を粧(よそおっ)て問い返した。
「私の家には、昔からの系図書きの中に、松子と云う夫人が二人ある。一人は今の阿母さんだがーーー。」
槙子は言葉の終わるのをも待つ事が出来ない。
「エ、今の阿母さんの名が松子」
丈夫は頷いて、
「そうして七代ほど前にも、松子と云う方が有った。此の方は先祖の中の第一の賢女で、屡(しばし)ば朝廷のお褒めに与かったのみならず、その頃出来た賢婦伝と云う様な本にも書き入れられた。」
槙子は是だけの次第を聞いて、少し驚きが鎮まった。従って丈夫も別に怪しむ気も出なかった。けれど後に至って、此の詰まらない一場の問答を、切実に思い出す時が有った。
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