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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma37

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)三十七 「希望広告」

 「何を新聞など見て泣いて居る。」
と丈夫は問うた。
 「ナニそうでは有りませんよ。」
と槙子は紛らせてしまった。

 念の為に丈夫は、その新聞を取って雑報蘭を読んで見たけれど、別に槙子を泣かせる様な記事は無い。又考えて見るに、槙子が悲しそうに打ち鬱(ふさ)ぐのは、今始まった事でも無いから、成るほど今日の新聞の為めに泣いたのでは無いのかも知れないと、こう思ってしまった。そうして出来るだけ槙子を慰めて此の場は済んだ。

 所が是から両三日を経て、丈夫は出先で二三の友人と落ち合って、此の人々から妙な話を聞いた。それは種々の雑談の末で有ったが、一人が不意に、
 「先頃から春山夫人竹子の方が捜して居る姪は、何所に居るのだろう。」
と云い出した。

 何の事だか丈夫には更に分からない言葉だけれど、春山夫人と云い、竹子と云うのは、確かに聞き覚えの有る姓名だから、丈夫は
 「それは何の事です。」
と聞き返した。友人は怪しむ様に、

 「貴方は未だ、此頃到る所で噂に為って居る此の事件を知りませんか。ロンドンタイムスの希望広告蘭を御覧なさい。」
と云われた。ロンドンタイムスの一語も異様に丈夫の心を動かした。
 「アノ新聞の希望広告蘭に」
と再び問う声に応じ、又一人は、

 「先月三度出て、今月も、もう三度出たが、何でもその姪が現れて来る迄、毎月三度づつ掲げる事に頼んで有ると見える。何しろ夫から大資産を残されて、それが為に、紳士社会の引張凧に成った春山未亡人ですもの。此の方が自分の姪の行方を捜すと云えば、何の利害関係も無い他人でも、冷淡に見て居る事は出来ません。」
と云った。

 その尾に従(つい)て又一人は、
 「アノ様な金満夫人が、相続人無しに死ぬかと、誰も怪しんで居たのですが、希望広告で捜されて居るその姪が、現われさえすれば、必ず相続人と成るのでしょう。所がその姪は、タイムス新聞などを見ずに、何所か豪州(オーストラリア)邊で貧しい生涯を送るかも知れません。」

 豪州と云う声も又異様に丈夫の胸に響いた。
 話は是だけで終わったが、丈夫は此の日一日の事務が済むや否や、直ぐに自分の属して居る倶楽部へ行き、その読書室へ入って、新聞係に先月からの「ロンドンタイムス」の綴じたのを出させた。そうして一々希望広告蘭を検(あらた)めたが、大した面倒も無しに捜し当てた。その広告の文を見ると、実に驚かずには居られない。

その標題は、
 「二人の姪春山嬢よ」
と少し大きな活字で置き。そうして、
 「今から十六年前、父春山桂造に連れられて、豪州へ渡った槙子、松子の両人よ、又は両人の中の一人よ、此の広告を見次第に、下記の伯母まで手紙を送れ。伯母より必ず喜ばしい便りを聞くだろう。

               デポンジャーにて    春山竹子

と有る。

 丈夫は唯だ一息に読んでしまったが、暫(しば)し新聞を見詰めたまま、身動きもしない。実に驚きの為、金縛りにせられた様になったのだ。此の広告に在る槙子、松子の中の一人が、我が妻槙子で無くて誰であるか。槙子の姓の春山と云う事も、前から分かって居る。姉妹二人、父に連れられて十数年前に豪州へ行った事も分かって居る。

 そうして槙子自身が、竹子と云う伯母の有った事を、覚えて居ると云ったのも事実である。素性を、素性をと、婚礼前に疑ったその素性が、此の様な素性で有ったとは、実に思いも寄らなかった。

 尤も槙子の口から母に向かって、良い家の娘である様に感ずる旨を告げたとは云うけれど、母も自分もその言葉に少しも重きを置いて居なかった。そうして今は大方忘れ掛けて居た。

 こうしては居られないとの念が、心の底に動くと共に、丈夫は立ち上がり、馬車を雇って急がせ宿へ帰った。帰って入口で馬車を下りると、丁度内から出て来た一婦人が有る。丈夫はその誰であるかを見もせずに、内へ入ろうとずると、その夫人は、
 「オオ伴野男爵」
と懐かしそうに声を掛けた。

 見ると風間夫人である。今まで男爵などと、敬称を加えた事が無いのに、何故だか殆ど打って替わって居る。そうして丈夫が顔を顰(しか)めるのも無視して、

 「申し譯ないご無沙汰を致しまして、イイエ今日は故々(わざわざ)槙子を、イヤ令夫人をお尋ね申したのです。ご存知の通り大津家に居る頃は、自分の娘よりも可愛い程に思って居ましたから、何だか懐かしくて、逢わずに居られませんので、イイエ大津博士も常にそう云って居ましたよ。

 頼り少ない槙子を、我が子の様に可愛がって呉れるのは、風間夫人貴方ばかりですと。ハイきっと槙子も心強く思うので、貴方の恩を後々まで有難く思うだろうと。ナニ貴方、槙子さんの様な可愛い方を、可愛がるのが何で恩などに成りますものか。ネエ男爵、オホホホホ」

 可笑しくも無いのに笑みまで加えて、独りで問答する様に述べ立てるのは、是も確かに希望広告を見た人である。



次(本篇)三十八

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