hitonotuma39
人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)
バアサ・エム・クレイ女史 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。
since 2021.4. 19
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
人の妻 バアサ・エム・クレイ女史 作 黒岩涙香 訳
(本篇)三十九 「何所に異(かは)りが」
槙子の云う所は一々尤もには聞こえるけれど、何だか言葉の間に不安な所が有る。確かに何事をか気遣いつつ話して居るのだ。けれど丈夫はそうとも思わない。実は余りの驚きに細かい所までは見て取る事が出来ないのだ。
彼れは槙子の言葉の終わると共に、何しろ此のままでは居られない。全体云えば和女(そなた)が広告を見た時に、直ぐに竹子伯母さんへ、何とか便りをするべきで有ったけれど、過ぎ去った事は云うのも無益だ。今から直ぐ様。」
槙子「ハイ私しが竹子伯母さんに、逢いに行く事に致しましょうか。」
致しましょうかなどと問うて居る場合では無い。
丈夫「勿論逢いに行かなければ成らないのだが、何しろ非常な事柄だから、私が送って行き、共々に竹子の方に逢うとしよう。」
槙子の不安な様子は又一段と深まった。
「でも最初には、私し一人で行く方が好くは無いでしょうか。」
イヤ決してそれは良くは無い。勿論夫に送られて行くべきである。丈夫は少しの余裕(ゆとり)も無い様に答えた。
「ナニ私が同道する。一旦逢って双方とも良く事情が分かった上は、兎も角だが、初めは一緒で無くては成らない。場合に由っては証明の必要も有るかも知れない。そうでなくても夫が言葉を添えなければ成らない事も有るだろう。先も又和女(そなた)の身の定まったのを見て、安心もするだろう。」
如何にもその通りである。槙子は此の言葉に従わない譯には行かない。
「では先ず私から手紙を出しましょう。出し抜けに行きましてーーーー。」
丈夫「そうだ、出し抜けに行くよりは、成るほど手紙を出して向こうからの返事を聞き、向こうの指定する日に行くのが好い。手紙には夫に連れられて行くからと、書いて置かなければいけないのだよ。」
話は先ず決まったが、何様丈夫の驚きは鎮まらない。
彼は叫んだ。
「和女(そなた)が春山伯爵家の血筋とは、誰が思い寄る者か。今の伯爵の従妹に当たるのだね。」
槙子「そうと見えます。」
丈夫「実に意外だ。意外千萬だ。」
槙子「意外でも貴方のお心が変わりはしないでしょうね。」
丈夫「エ、私の心が、和女(そなた)に対する私の愛が、何で変わる事が有る者ぞ。和女が譬(たと)えば乞食の子と分かろうが、王族の子と分かろうが、槙子は矢張槙子だもの。けれど先ア目出度い、何しろ目出度い。唯だ併(しか)し、和女(そなた)の心が、変わりさえしなければ。」
槙子「私はその様に思われるのが辛いから、矢張り素性の分からないままで居るのが、良いかも知れないと思いました。血筋が何で有ろうと、元からの春山桂造の娘で、伴野丈夫の妻ですもの。何所に変わりが有りますものか。」
丈夫は此の言葉を聞いて、更に嬉しさが全身に満ち渡る想いである。
間も無く槙子は、自分の部屋へ退き、下の手紙を認めて、持って来て丈夫へ見せた。その文は、
「お懐(なつか)しき竹子伯母さま」
との書き出しで、
「此の様に申し上げますのは、間違い無く私が貴女の姪、槙子に違いないと存じますからです。姉妹にて父に連れられ、豪州(オーストラリア)へ渡りました事は、極々幼い時の事ながら、夢の様に覚えて居ります。父は数年前死去致しましたが、曾(かつ)て私し共に、詳しく身の素性を話したことは有りませんでした。
それが為め、私し事、此の国へ帰って来ました後も、如何なる縁者親類の有る事やらを、尋ねる当てる事さえ無しに、日を過ごして居りました。唯だ竹子伯母さんと云う、私しと「まっちゃん」とに、親切にして呉れた方の有った事だけは、幽(かす)かに記憶致して居り、人に語った事も有りました。
父の死する少し前に、博士大津倉人の息子、波太郎と婚礼致しましたが、波太郎は死去し、その後に女の子を生み落としました。間も無く「まっちゃん」も死去致しました。私とその赤ん坊とは、大津博士の親切で、此の国に引き取られ、そうして私はその後、今の夫と結婚致しました。
今の夫はヨークシャー州の伴野荘園の主人で、今は微力の為め、その荘園に居住致しては居りませんが、家名は落とすことなく維持している、男爵伴野丈夫と申す方であります。先ず是だけが、私の履歴で御座います。
若し私しをば、貴女がお尋ね成されて居ります、姪に相違無しと思し召しに成られるならば、御都合宜しき日を、御指図して下されますよう、お願い申します。そうすれば夫、伴野丈夫も歓んで私しを引き連れ、参上致す旨を申して居ります。」
と本文は是だけである。
そうしてその終わりへ、
「若しも貴女が私の思う竹子伯母さんならば、ゆかしき姪、伴野槙子」
と書き添えてある。
日頃書く手紙ほど、良くは出来て居ないけれど、全く要領は得て居た。そうして毎(いつ)もM一字しか書かないのに、完全に姓名を署してある。
丈夫は一読して「之で宜い。」と云い、直ぐに郵便に差し出させた。
a:140 t:3 y:0