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hitonotuma40

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.4. 19


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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)四十 「人を欺く筈も無い」

 槙子の手紙を閲し終わって、丈夫は云った。
 「何時も和女はMの字だけしか書かんのに、此の度は「槙子」と立派に署名したね。」
 槙子は思い定めた様な口調で、
 「ハイ、外の場合と違いますから、何も彼も及ぶ丈け明白なのが好かろうと思いまして。」
と答えた。

 この様にしてその手紙を出してから、相当の日数を経て、向こうから返事が来た。
 その返事の来る前に、丈夫と槙子は、此の一大事を母に知らそうか知らせずに置こうかと相談したが、愈々(いよいよ)間違い無いと決まるまでは、知らさずに置き、そうして確定した時に驚喜させるのが好かろうと、話が決まった。

 尤も母御は今丈夫の許に居るのでは無い。丈夫の婚礼以来、内山夫人即ち今の大津夫人の許と、丈夫の許とそうして自分の住居とを同じ様に我が家と思い、気の向いた所へ行って、気の向いた丈け逗留し、又気が替われば次へ行くと云う様にして居る。

 今は丁度大津博士の家に居るのだ。
 丈夫と槙子は、竹子の方から返事の有るまでの間、毎日暇さえあれば此の事件の評議ばかりして居た。その中に返事の手紙が届いたので、槙子は郵便の消印を見ると斉しく、封も切らずにその手紙を丈夫に渡し、額を揃えて共に読んだ。その文言は下の通りである。

 「我が懐かしき槙子よ。私は少しも疑わない。和女(そなた)こそ我が姪に違い無い。立派な夫を持った今の身で、自分の身分でない身分を唱えて、欺く筈も無いので、私は実に嬉しくて成らない。終に和女(そなた)を捜し当てたのがーーー。」

 是が書き出しの一段である。話の様に書いた言葉に、真情と喜びとが溢れて居る。槙子は是だけ読んで殆ど顔の色を替えた。
 「自分の身分ではない身分を唱えて人を欺く」
云々の文句の為ではまさか有るまい。嬉しさが余っての事だろう。

 「そうして更に嬉しい事に、又目出度いのは、和女(そなた)が立派な結婚をした事である。昔し和女の父が私等を悲しませる為に、意地悪く和女等を連れて豪州(オーストラリア)へ立った時は、私しはもう二人の娘は、人並みに婚礼などする事は出来ないだろうと、泣き暮らし泣き明かした。

 その中には和女(そなた)の父が後悔し、自分の身は親類への面当てに何の様な真似をしようが、娘二人に艱難を及ぼしては罪だと、和女(そなた)等の可愛いさの為に思い直して、今にも英国へ帰って来るか、今にも豪州から居所を知らせて来るかと、一年待ち、二年待ち、到頭無駄に今まで待った。

 実に和女(そなた)の父は意地の強い気ままな人であった。けれど死んだ者ならもう何も云わずに置こう。それよりも悲しむべきは、和女(そなた)の妹松子の死んだ事である。有りのままに云えば、私は和女(そなた)よりも松子の方を可愛いく思った。

 素より同じ姪だから、薄い暑いの隔ては無いけれど、松子は実に美しい子であった。和女(そなた)と云えども、愛らしく生まれては居るが、松子は又一層優って居た。私の目には今だに二人の顔が焼き附いてて居るーーー。

 丈夫はここまで読んで、
 「竹子伯母さんは、和女(そなた)と松子とを間違えて居るのでは有るまいか。」
と云った。槙子は異様に気が動く様子で、

 「そうかも知れません。」
 丈夫「和女よりも松子の方が美しいなどと、私は松子を知らぬけれど、和女よりも美しい女の有る筈が無いと思うからさ。」
と全く真面目に丈夫は云った。槙子は気が附いた様に、
 「アレ冗談など云ふ時では有りませんよ。「まっちゃん」は大層な美人でした。」

 丈夫「それにしても、和女(そなた)が今まで、「まっちゃん」とばかり云って、松子と云う名前を私へ話さなかったのは、何う云う譯だったのだろう。」
 別に深く怪しんで問う譯では無い。唯だ言葉の順で自然にこう問う事になったのだ。

 槙子「オヤそうでしたかねえ。私は気が附きませんでしたけれど。」
 丈夫「そうとも。何時か私が、女の名前の中で「槙子」と云うのの次には「松子」と云うのが好きだと話した時、和女は少し驚いた様だったが、自分の妹の名前だからだったのか。それでだったらアノ時に和女はそう云い相な者で有った。松子とは妹の名前ですと。」

 槙子は日頃物覚えの好いに似ず、
 「その様な事が有りましたかねえ。」
と全く忘れた様子である。丈夫は忽(たちま)ち悟った。アア槙子は松子と仲違いて終わったのだ。それだから、夫が「松子」と云う名を好くと聞いて、偶然ながら驚きもし又自分の妹が丁度其の名前だと口に出す事を厭うたのだ。

 之で見ても、槙子が波太郎を憎むに至った事情が分かる。確かに波太郎の死んだ時、妹松子も同じ汽車に乗って居て、云はば罪の深い情死の様な、一緒の最後を遂げたのに違いないと、忙しい中に曾ての疑いが復(かえ)って来た。

 槙子は丈夫の心の中を自然に察し、知る事が出来たのか、
 「先ア無駄話よりも、大事な手紙を読んでしまおうでは有りませんか。」
と促した。



次(本篇)四十一

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