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hitonotuma43

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)四十三 「天の報酬(むくい)」

 成るほど聞いてみればそうだろう。槙子の父が、親戚へ復讐の一手段として姉と妹の名を取り替え、槙子と云うのを松子とし、松子と云うのを槙子として置いたのだろう。此の説明に丈夫も怪しんで居た念が消えた。

 竹子夫人も、説明し終わって此の上無く満足の様子である。名前は何方でも、確かに本人が自分の寵愛した本人であるのだから、共に喜ぶより外は無いのだ。暫(しば)らくして夫人は問うた。

 「和女(そなた)を槙子と呼ぼうか、松子と呼ぼうか、何方にしようねえ。」
 槙子は考え考え、
 「槙子ですから何うか槙子とお呼び下さい。」
 夫人「ではそうしよう。槙子、槙子、オオ何方にしても良い名前だ。」
 実に槙子と竹子夫人との間に、話は尽きない様子で有った。けれど夫人は病人の事であるから、自分から注意して、或る一定の時間を過ごさない事にし、間も無く此の面会を切り上げた。

 翌日も翌々日も大抵はその通りであったが、四日目に至っては、最早や槙子の今までの事情も大凡(おおよ)そは竹子夫人の胸に分かってしまった。夫人は特に槙子一人を我が部屋に呼び、
 「今日は少し用事の話を仕たいが。」
と前置きを置いて、そうして云った。

 「和女(そなた)の過ぎ去った苦労は今更ら云っても仕方が無い。唯だ私は何うか此の後を、幸福に送らせる事にしたい。第一私が気の済まないのは、自分の娘も同様な姪の和女(そなた)を、貧民の娘か何ぞの様に、婚資も無しに縁付かせた事である。知らなかった事なので、今までは仕方が無いが、こう分かった上は、ここで償いを附けねば成らない。」
と云い、そうしてその婚資には、今現に人手に渡って居る伴野荘園を受け戻して遣ると云う事だった。

 伴野荘園を受け戻すとは、世襲財産が再び手に入る事である。貴族として身分相応の暮らしが出来ると云う事である。槙子は真に夢かと許りに喜んだ。

 次に夫人は丈夫を呼んで又同じことを伝えた。そうして云った。
 「貴方の御気質としては、妻の婚資として、伴野一家の荘園が元に帰る事は、お喜び成されないかも知れませんが、真に夫婦は一体であるならば、妻の手で返るのも、夫の手で返るのも、少しも違いはないでしょう。

 豈夫(よもや)貴方が妻と御自分とに分け隔てして、少しの感情の為に、妻の幸福を遮ぎる様な事は為さらないと思います。」
 実にその通りである。何方かと云えば、丈夫の心では、妻の婚資で以て世襲財産を受け出すよりも、たとえ遅くとも、自分の勤勉と忍耐で受け出し度いとは云え、母と自分が何ほど此の荘園を受け戻すのに苦労したか、又此の荘園を一日でも長く、人手に渡して置くのが何れほど辛かったかと、今までの事を考えて見ると、こうまで云って呉れるのを、如何にも少しの感情の為に拒絶する事は出来ない。

 その上、自分の事で無く、妻の身に来る幸福であるのだから、それを夫たる者が遮るべき道は無い。丈夫は唯だ首を垂れた。そうして何も云わずに、ハラハラと涙を流して居る。夫人は更に言葉を足した。
 「イイエ、貴方の今までの御辛抱は、迚(とて)も他人には出来ない事です。松子イヤ槙子からその一通りを聞きましたが、此の様な辛抱も、報いが無いと云う事は有りません。

 荘園が元へ返るのは、私の為では勿論無く、天の報酬(むくい)です。天が貴方の辛抱を嘉(よみ)《褒めたたえる》して、此の様な廻り合わせに成らせたのです。」
 丈夫は余りの有り難さに、夫人の手を取った。そうしてその凋(しな)びた甲へ有難さの接吻を施して、

 「夫人、夫人、真に謝する所を知りません。」
 丈夫の様な正しい男に、これほどまでの感謝を受けて、誰れか真実に嬉しく無い者が有るだろう。夫人は非常に嬉し相にして、
 「今は是れだけですが、私には相続人が有りませんから、今から槙子を相続人に定めて置きます。何時死ぬかも知れない身ゆえ、今日直ぐに法律事務者を呼び寄せ、荘園受け戻しの手続きと私の遺言状を作る事を托します。」

 たとえ夢としても、是ほど有難い夢は、見る事は出来ない。見る人は余程の幸福者である。
 丈夫「私は云うべき言葉が有りません。けれど夫人、私はその相続の時が、何時までも来ずに居る事を祈ります。」
 真誠の喜びは悲しみの様な者である。丈夫は少しも気が晴れない。寧(むし)ろ悄々(しほしほ)として、夫人の前から引き下がった。

 そうして槙子と一室の中に会した。槙子も余りの嬉しさに、却って笑みは浮かべて居ない。何だか恥ずかしそうであり、又心配そうである。丈夫は云った。
 「槙子、私は和女(そなた)の夫と為るに足りない。和女がこれ程までの身分とは思わずに縁組したが、分かって見ると、何だか此のままで、夫と云う顔をして居ては済まない気がする。」

 槙子は涙声である。
 「貴方がその様に仰有りはしないかと、私は心配して居たのです。けれど貴方、貴方、何故その様に仰有りますか。夫婦二人の間へ下って来た幸福では有りませんか。受け取るなら隔て無く二人で受け取りましょう。断るなら隔て無く二人で断わりましょう。」

 丈夫「和女(そなた)はその様に思って呉れるか。」
 槙子「こうより外に何と思い様が有りましょう。是れが若し貴方と私と入れ替わり、貴方の方へ此の様な伯母さんが現れて来たならば、貴方は槙子よ、もう和女は此の身の妻と為って居るには足りないからと、私をお振り捨てに成りますか。」

 実に一言で身動きもさせない程の言葉である。丈夫は竹子夫人の賜物よりも此の一言が有難い程である。何して此の身には、此の様な好い妻が出来たかと。後は、
 「許して呉れ槙子」
との一語と共に、夫婦初めて、此の意外な幸福を味わう事が出来る事となった。



次(本篇)四十四

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