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hitonotuma44

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)四十四 「虫の知らせ」

 婚礼して以来、丈夫と槙子との間は、先ず嬉しい事ばかりで有ったけれど、是ほど嬉しい事は無い。恐らくはどの様な家の夫婦にも、イヤ何人にも是ほどの歓びは生涯、降って来ないで有ろう。

 此の後二週間ほどは、二人とも只だ嬉しさに満ち満ちて、何の様に日を暮らしたか、覚えて居ない程である。春山伯にも逢った。竹子夫人の許へ来る、当世有名の人達にも多く紹介せられた。既に竹子夫人の相続人と云う、誰にも羨まれる噂が次第に広まりつつあるのだ。

 けれど二人の喜びは人の噂や人の尊敬などでは無い。世襲財産の伴野荘が我物になると云う一条なのだ。之が再び我物にさえ成れば、イヤサ少しも質の利子などが加わらずに、我物と為る日には、森林、牧場、田、宅地などから揚がって来る、年々の収入が莫大な者で、伴野家は昔の盛んな有様に立ち返るのだ。

 そうして丈夫も準官吏と云う職業を罷(や)めて、貴族らしい貴族の、当主らしい当主と為る事が出来、位置も勢力も一時に高くなって、何の様な志望をも達する事が出来るのだ。それ是れの事を思って、槙子は或る日丈夫に云った。

 「是でもう貴方は、朝から晩まで働くには及びません。出勤だの服務だのと云う、恐ろしい言葉は忘れてしまい、国会議員にでも何にでも成る事が容易です。」
 丈夫は満面笑みである。
 「和女(そなた)は私しを政治家にしたいのかえ。」

 槙子「政治家にでも何にでも、名高い人に成って戴きたいのです。」
 丈夫「国会議員と云えば、直ぐに人は政治家の様に思うけれど、議員ほど政治に暗い者は無い。私は醜行ばかり多い今の政治界に名を出すより、更に広大な事業界、そうで無ければ学術界の恩人と成りたいのだ。」

 槙子「ハイ何うかそう成って下さい。」
など、早や後々の希望を語り合うのは、位置を得るに従って、人間の真の性質が現われると云う者だろう。

 逗留は予定よりも永くなった。竹子夫人が容易に此の夫婦を放さないのだ。間も無く此の夫人の許から、政府への辞表をも出した。もう母にも喜びを分かたなければ成らないと云うので、母御へも夫婦各々一通を認め、同じ袋に入れて、事の次第を知らせて遣った。

 之を得た母御の喜びは、二人に優り様が無い様な者の、実は優った。今まで何の様な素性かと、その素性をのみ不安に思って居た嫁が、実は貴族の血を受けた女で、しかもその為に多年の大願である、伴野荘園の回復まで出来る。是ほどの嬉しさが又と有ろうか。

 「私はもう死んでも好い。」
と返事の手紙には書いて寄越した。 
 此の年の十月に、伴野荘園の受け戻しの手続きなどが終わって、丈夫、槙子、丈夫の母御、此の三人が目出度く伴野荘へ帰る事になった。荘園に属して居る広い領地一般の人民は、自分の父母でも帰って来るかの様に、歓迎に先を争った。

 緑門《竹、木で骨組みを作り、杉、ヒノキなどの青葉で包んだ門》をも建てた。お祭りの様な騒ぎをも催した。万歳万歳の声は野にも山にも響き渡った。吉(よ)い時には吉(よ)い事が重なる者だ。此の翌年に及び槙子の手へは更に何百万とも数の知れない大財産が転がり込む事になった。それは竹子伯母さんが亡くなったのだ。

 伯母さんの亡くなるのは吉では無いが、その財産が転がり込むのは決して凶とは云われないだろう。たとえ凶でも此の様な凶ならば、我慢が仕よい。イヤ大抵の人が吉よりも有難がる。

 尤も槙子夫婦は此の上無い恩人の永眠だから、深く悲しみはした。やがて遺言状を開いて見ると、約束の通り槙子が財産総体の相続人とは成って居る。
 そうしてその遺言の実行管理人は、槙子の伯父に当たる春山伯と槙子の夫伴野丈夫とである。之が為に丈夫はしばしば春山伯の許を訪い、伯と万事を相談しなければ成らない事になった。

 勿論巨万の財産だから、引き継ぐと云っても容易な事では無い。帳面に由って、その多寡を調べる丈でも大変な手数である。更に実物を調べて帳面と引き合わせるのは又一層の手数である。けれどそれも是れも、伯と丈夫との勉強で遂には済んだ。

 ここに至っては、単に遺産の上のみから云っても、槙子は英国に並びの無い程の女とは為った。その上に綺倆と云い心掛けと云い又多くは類が無い。真に丈夫が何の果報でこの様な妻を得たかと、自ら怪しんだのも無理は無い。
 
 それはさて置いて、この様に財産の引継ぎが済んだので、丈夫は改めて春山伯を訪問し、一応の謝意を述べなければ成らない。その為にある朝、我が家を立出る事とはなったが、何時に無くきっと留守の間、槙子が淋しがるだろうとの念が非常に強く浮かんだ。留守と云っても僅(わず)かに晩方までである。

 以前政府に奉公して居た頃の事を思えば、毎日の事で有るのに、何故こうも気遣わしく思うのだろう。槙子も同じ思いと見え、送って出た廊下先で丈夫を引き留め、
 「何うか早く帰って来て下さいよ。今日は阿母(おっか)さんもお留守ですから。」
と云った。

 母御は此の前日から、一家の喜びを繰り返して話す為に、大津博士の家へ行って、未だ帰らないのだ。丈夫は、
 「ナニ、夕飯までには帰って来るよ。」
と重い心を軽く云って出で去ったが、後で思うと、その心の重いのが、虫の知らせと云う者であった。



次(本篇)四十五

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