巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma45

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.4. 25


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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)四十五 「逃げても駄目」

 「虫が知らせる」などと、実際その様な事の有る筈は無いけれど、何か災難の起こる様な時には、四囲(あたり)の事情の為に通例、当人の神経が過敏に成って居る者だ。故に何事を見ても、先づ胸騒ぎがして心配に感ずるのだ。

 今、丈夫と槙子ともその例には洩れない筈だ。たとえ目出度い事柄にもせよ、こう重なって積もっては、多少神経に影響せずには居られない。何しろ素性も分からない一女子と、自分も夫も思い込んで居た者が、貴族の血筋と分かり、二年も経たない中に、国中屈指の大財産を相続する事になるとは、全く類の無い事柄では無いけれど驚くべしだ。

 他人でさえも、神経を動かさずには、居られない程なんだもの。況(ま)して当人としても、若し気の弱い者ならば、嬉しさに発狂もし、気絶するかも知れないのだ。
 兎に角丈夫は、家を立出る時に、異様に胸が騒いだ。いっそ行くのを止(よ)そうかなとまでに思った。

 けれど別に止すべき譯と云って無いのだから、そのまま家を踏み出したが、家の外の有様を見ると、又嬉しさが満々て来る、我が踏む地面は、我が所有の地面である。先祖代々の領地である。空気も我が物、青空も我物と云っても好い。

 人を此の地の上に立たせず、此の空気に触れさせず、青空の丁度此邊を頂(いだか)せない様にする事も出来る。誰が此の権利を我れから奪おうとしても、奪う事は出来ない。奪えば法律に罰せられるのだ。法律までも我に奉公する様に出来て居る。実に愉快だ。実に面白い世の中だ。

 それからそれへと、幾等先を考えても、続いて出る者は嬉しい思案ばかりである。此の荘園を受け戻そうと、親子夜の目も寝ない程に稼いで居た時と、何等の相違だろう。夫婦唯だ倹約を、倹約をと、身を詰めて居た時と、何たる違いだろう。

 幾等使ったとしても、減りの立つ様な財産では無い。使わずに居れば殖えて殖えて困るのだ。此の様な大いなる幸福を持って居て、是れで世の中の大恩人と為る事の、出来ない筈は無い。奮発一つで、我が名は後世にまで輝き渡るのだ。それも是れも実を云えば妻のお蔭、アア槙子ほど有難い者は無い。

 汽車に乗った後までも、此の様な思いが続いている。やがて汽車は一つの乗り換え駅へ着いた。丈夫は降りて次の汽車を待たなければ成らない。待つ間が凡そ卅分間以上もある。待って居る間にロンドンからの汽車が着いた。此の汽車からも乗り替えの人やその他が沢山降りる。

 丈夫はおっとりとして、その降りる人達の顔を、眺めるとも無しに眺めて居た。丈夫の乗る汽車は此のもう一つ次なのだ。
 眺めて居る間に、一つ丈夫の眼を睜(みは)らせた顔が有る。丈夫は唯だ「オヤ」と思った。そうして見直した。初めは何の気も移らずに見たのを、今度は気に留めて検(あらた)め見たのだ。

 何うだろう、その顔は全く丈夫の命取りである。丈夫は見る中に顔色が変わってしまった。彼は宛(あたか)も地上に釘附けにせられた様な状態である。抑(そもそ)も丈夫をこれ程までに驚かせるとは、誰の顔だろう。外では無い。大津波太郎である。

 若しや人違いでは無いだろうかと、丈夫は一時この様に思ったけれど、人違いでは無い。妙に人を愚弄する様な目付き、義理人情を何とも思わない様な、憎々(にくにく)しい笑みの出る口許など、丈夫は昔から嫌いである。
 此の嫌いな顔が、波太郎より外に又と有る筈が無く、丈夫が見違える筈も無い。

 彼れ波太郎は、遠国を流浪して帰って来た風である。余ほどの苦労をした様が、着物の汚れや、鞄(かばん)の擦れた所などに現れて居る。云わば乞食との隔たりは、ほんの一歩である。活智(いくじ)の無い彼れの事であるから、きっと途中で乞食をもしたのだろう。

 けれどその様な事は何うでも好い。何にしても此の波太郎は、丈夫の今まで妻と思って居る槙子の夫である。豪州(オースラリア)で死んだ者と為って居たからこそ、槙子は未亡人と為り、自由の身を以って丈夫へ、二度目の嫁入りをしたのであるのに、その波太郎が、死んで居ずに生きて居るとは何事だろう。

 若しや夢では無いだろうか。イヤ夢では無い。シテ見れば丈夫自身が槙子の夫では無い。手に入れたと思った伴野荘園の主人では無い。全くの槙子の他人、伴野荘園に対する唯の人で、槙子の夫は依然として、此の波太郎であるのだ。丈夫は逃げても駄目、隠れても駄目。立って居ては尚更駄目なのだ。

 絶望とも何とも名の附け様の無い驚きに、身動きもする事が出来ずに立って居ると、波太郎の方で早や丈夫の顔を認め、
 「ヤア伴野丈夫さん」
と云って近づいて来た。
 若しや他人の空似かとの空頼みも消えてしまった。



次(本篇)四十六

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