巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma49

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.4. 29


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)四十九 「狂人の力」

 丈夫の様子で見れば、波太郎を森の中へ連れて行くのは全く殺す積りかも知れない。波太郎の方はそうも思わない。唯だ手切れ金の相談をする積りである。寧ろ喜び勇む程の様で、丈夫の後へ随(つい)て行った。

 喜び勇むのは無理は無い。彼は切めて手切れ金にでも有り付かなければ、此の先の方法が附かない場合に成って居るのだ。自分の妻槙子が自分を死んだ者と思い、人の妻に成って居るのは、彼に取って勿怪(もっけ)の幸いである。

 初めは驚いたけれど、今では金の脈にでも有り附いた程の心で居る。やがて二人は森の中に入った。
 丈夫「もっと樹の茂った所へ行きましょう。」
と云い先に立って奥深く進んだ。彼は丈夫の意に従うのみである。

 奥深くと云った所で、大した森では無い。余り奥深く進めば通り越すのだ。勿論停車場の付近だから、樹の間に荷車などの通る道も附いて居る。その道を避けて少し歩み入った所で、倒れた樹の上へ二人は腰をおろして差し向かいになった。

 丈夫は波太郎の体の、何の邊へ飛び掛かろうかと、検める様に唯だ波太郎を眺めて居る。何にも云わない。波太郎の方から口を開いた。
 「縁は異な者と云うのは、此の様な事でしょう。シタが婚礼してから余ほど長く成りますか。」

 丈夫は腹立たしさを少しも隠さず、怒ったままの声で、
 「その様な過ぎ去った事は、何も貴方が問うには及びません。ここへ来たのは是から後の相談の為ですから。」
 波太郎「それはそうです。貴方は槙子と婚礼して一月になるか、一年になるか、その様な事は今の相談には関係は無い。それでは丈夫さん、こう仕ようでは有ませんか。

 槙子は何所迄も貴方の妻として保存して置き、私は此の場限り貴方から旅費を頂き、再び外国へ身を隠してしまうと云う事に。エ、それが好いでは有りませんか。そうすれば誰も貴方の妻に、本当の夫が有ると云う事は知らず、矢張り貴方は波太郎の未亡人を妻にしたと云う体裁で、今まで通り何事も無しに済むでしょう。之より外に好い工夫は有りません。」

 丈夫の胸には、この様な思案の浮んで出る余地は無く、何して好いやら殆ど無我夢中で、唯だ波太郎を殺しさえすれば好いとのみ思って居たが、此の言葉で少し悟る所も有った。けれど更に無言で、波太郎の身体の何所が、急所だろうと探す様に目を配って居る。

 波太郎は語を継いで、
 「詰まる所、その旅費の多い少ないで話は決まるのです。私は此の様な相談には慣れて居るから、私の方で切り出しましょう。ここでもし一時にお払い成さると成らば、五万磅(ポンド)《現在の約7億円》お出しなさい。

 五萬磅が先ず相場です。それで私は生涯の手切れとして、再び此の国へ帰らないのみか、大津波太郎と云う名も用いず、槙子の真の夫が、此の世に生きて居ると云う事は、誰にも知らせません。」
 五萬磅は大金でも、今の丈夫に取ってはそれ程まで、大儀な譯では無いけれど、丈夫は未だ返事をしない。

 波太郎「それとも一時に払う事が出来ないならば、ここで旅費だけを出し、後は月々でも年々でも、私の居る所へ御送り下さい。此の方は済崩(なしくづ)しだから割が高く、総計で十萬磅《現在の10億7千500万円》になれば、貴方の義務が済んだ者としましょうよ。

 期限通りに送金が有る中は、私も神妙に約束を守ります。若し送金が滞おり、一度催促してもまだ送って下さらなければ、私が、自分んで取りに帰ります。そうして模様に依っては、公然槙子の夫と名乗って、玄関から貴方へ面会を求めます。是だけの約束なら、まさかに送金を怠る様な事は成さらないでしょう。」

 噛んで哺(ふく)める程に、言聞かせた積りであるのに、丈夫はまだ返事をしない。
 波太郎は念を押す様に、
 「勿論貴方は、依然として槙子を妻にして居度いのでしょう。」
 丈夫は又忽(たちま)ち怒った声で、
 「妻にと言って、妻で無い者を妻にして居られません。」
 波太郎「オヤ、それでは槙子を私へ引き渡しますか。」

 丈夫「貴方へ引き渡す。それは決して出来ない事です。貴方がまだ生きて居ると云う事が耳に入れば、槙子はそれ丈で驚き死にます。」
 波太郎「では矢張り、私くしの今云った通りにする外は、仕方が無いでは有りませんか。丈夫さん、貴方の為に極幸いなのは、私が槙子に少しも未練を残して居ないところに在るのです。

 私も決して槙子を引き取ろうとは云いません。槙子は何所までも、貴方の意のままに任せて置きますから、その代わり金をお出しなさい。今云った丈の金を、そうして私が死んだ者と成ってしまわなければ、貴方と槙子の仲は、第一結婚が無効に成り、夫婦で居られないでは有りませんか。」

 丈夫はその夫婦で居られないのが辛いのでは無い。それも辛い事は辛いけれども、それよりも、もっと辛いのは、槙子の耳へ波太郎がまだ生きて居る事を聞かせる事に在るのだ、之れを聞かせては、全く槙子は驚きや悲しみや様々の心の激動の為に死んでしまう。

 事に依っては自殺するかも分からない。丈夫の胸の中は、自分の苦しみよりも、槙子の苦しみを思うが為に、闇の様に為って居る。
 波太郎は少し語を転じて、

 「何故私が槙子に未練を残さないのか、その仔細の一つを貴方に知らせて置きましょう。第一私は是非とも槙子を欲しいと言って、妻にした者では無いのです。槙子の父が、私の胸へ短銃(ピストル)を差し附けて、槙子と結婚しなければ、射殺すぞと云いました為め、詮方なく夫婦には成ったのです。

 尤(もっと)も父がその様にしたのは、満更ら譯の無い事でも無く、私も旅の徒然に、槙子も年頃ゆえ、私と槙子との間に少し怪しい事が有ったことは有ったのです。」

 此の一語は、真に槙子の令名を汚すことは、一通りでは無い。殺気を帯びて居た丈夫は、此の一語に怒りが煮えくり返る程と為り、何も云わずに直ぐに波太郎の首に飛び付き、波太郎が身を反(かわ)す暇も無い間に、早やその咽喉を両手で以て、力の限りに縊(しめ)附けた。実に狂人の力である。

 波太郎はグーの音も出ずに呼吸が絶えた。



次(本篇)五十

a:121 t:2 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花