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hitonotuma55

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻  バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)五十五 「私も次の船で」

 恐らく伴野の一家(け)は滅亡の時が来たのだろう。主婦人たる槙子が最早や伴野家の人では無く、主人(あるじ)たる丈夫が伴野家を我家とする事が出来ない。何所に伴野家の立つ所が有る。

 丈夫は再び帰らぬ積りで、早や印度を指して大陸へ立った。最早や呼び返す道も無い。槙子が之を聞けば何の様に思うだろう。何れほど重大な用事にもせよ、妻に一言の暇も告げず、イヤ我家へも立ち寄らずに、千里の旅に立ってしまうとは、先ず例の無い事だ。

 此の例の無い事を、道理(もっとも)らしく槙子に云い聞かせて、そうして亡びる家の先途を見届けるのが、母御の役目だ。母御は永年の間、唯だ此の家を盛り立てるにのみ苦労して、漸く運が開いたと安心したのは、ツイ此の頃の事である。それが直ぐに又此の始末とは、何れほどか悲しい事だろう。

 けれど徒(いたずら)に悲しんでは居られない。丈夫に約束した通り、此の夜直ぐに、我家と云われない我家へ帰った。着いたのが九時半頃で、丁度槙子が寝る為に、二階の部屋へ今上がったと云う時である。けれど槙子は母御の帰ったのを聞いて、直ぐ降りて来た。とは云え、勿論この様な大事件とは夢にも思わず、別に普段と変わらない調子で、

 「今夜旦那もお帰りが無いとの事ゆえ、淋しくて早く寝(やす)む所でした。旦那からの電報には、その譯は阿母(おっか)さんに聞けと有りましたからーーー。」
 果たして槙子は、丈夫が今夜一夜だけ帰らない事の様に思い、少しも心には障(さわ)らずに居るのだ。

 仮初めにも母と云われる身が、
 「イヤ生涯帰らぬのだ。」
と何うしてその様な、意地の悪い事が云われよう。来る道々に母御は、何う云おうこう云おうと、自分の言葉を、腹の中で暗誦するほど繰り返して来たけれど、今は何の役にも立たない。

 漸くにして、
 「私も和女(そなた)に聞かせるのが辛くて、イヤ一夜か二夜か帰らないと云うのとは違ってーーー。」
と覚束なくも言掛けると、槙子は早や怪しさに我慢が出来ない様子で、

 「エ、エ、何と仰(おっしゃ)います。旦那は四、五日もお帰りが無いのですか。」
 益々母御の言葉は出後れてしまう。
 幾等善い目的を以てにもせよ、嘘と云う事は、正直な人の口からは、極めて出にくい者である。母御は初めて思い出した様に、丈夫の手紙を取り出だして、

 「槙子や、和女(そなた)はきっとお驚きだろうけれど、此の手紙を見て、何事も知ってお呉れ。」
と云い、槙子に渡した。槙子は余程の心配な事でも起こったのか知らと、胸の騒ぎをその顔に現して、遽(あわただ)しく封を切った。

 手紙は勿論充分の愛を籠めて、成る丈け槙子を驚かさない様に、尤もらしい事を書いてある。弟次男が印度で重い病気に成ったと云う事に依り、船の都合で一刻の猶予も無く、立たなければ成らないのだが、家へ帰って不意に此の様な事を耳に入れては、きっと驚きもしようし、分かれに手間が取って少しの時間を失っても、先へ着くのは大変な相違になるから、悪しからず察して呉れと云う様な文言である。

 半分は事実、半分は無根、そうして肝腎の事は、露ほども知らさずにあるのだ。
 槙子は勿論驚いた。けれど驚くより外の、厭(いと)うべき感じは、少しも無い。

 「次男さんは余程の御病気でしょうねえ。何うか旦那の御着きまで、重くならずに居て呉れれば宜しいですが。」
と云った。母御の口からは、之に調子を合わせるべき言葉が出ない。槙子はしかし、母御が次男の事を心配して、その為め毎(いつ)もと様子の違って居られる事と思い、却(かえ)って自分の方から、二言三言慰めたが、幾等手紙が道理(もっとも)らしく書いて有っても、思い直して見ると何だか腑に落ちない所が無いでも無い。

 「旦那は余程お急ぎで有ったと見え、留守中の事などは、一つも書いて有りませんが、色々指図を受けて置かなければ成らない事も有りますのに。」
 母御はハッと思った。そうして僅かに、

 「此の手紙に洩れた事は、次に寄越す手紙で云って来るだろう。―--多分。」
 槙子「それはそうですけれど。」
と云い、又も今の手紙を読み直した。読み直すと何だか初めて読んだ時よりも又物足りない所が多い様に感じられる。

 是と云うのも全く急いだ為だろうけれど、それにしても後々の事は少しも書いて無い。弟の病気が快(良)く成り次第に帰るとか、待ち遠しく思うなとか云う様な言葉が、丈夫の日頃の親切な気質から云えば、何所かに有り相な者なのに、何所にも無い。

 二度読み返し、又三度読み返したが、何だか再び帰らないと云う決心で書いたのでは有るまいかと感ぜられる所も有る。之を感ずるのは流石に女の微妙な神経である。それに愛の心が満ち満ちて居る為に、猶更(なおさ)らその様な所に気が附くのだ。

 「此の手紙では阿母さん、旦那は再び帰らないお積りでは無かろうかとも思われますが。」
 母御は又ハッと驚いたが、驚く様を悟られては、丈夫に頼まれた旨にも背き、母の役目が勤まらない。

 「和女(そなた)は、そう色々心配してはいけません。身体に障(さわ)ると大変だから。」
と他の事に紛らせたが、実は此の時、槙子は身重と為って居るので、此の言葉が極めて場合に相応に聞こえた。槙子は更に考え込み、
 「寧(むしろ)私も次の船で印度まで行きましょうか。」



次(本篇)五十六

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